昨今取り扱われる「AI」というものに、素朴な疑念がある。

Staff Blog

AIにおける達成と、その意義について、なんだか過信というのか、過大評価というのか、そういうむずむず感が避けがたい。

唐突だが、例えば、100m走について考えてみる。

今でも陸上では人気の競技なのだと思うが、それは「人類最速」は誰なのか、という興味においてである。道具を使っていいのなら、電気自動車を使えば、生身の人間より100mを短時間で駆け抜けるだろう。だけど、それは100m走よりも興味を持たれない。

なぜか。つまらないからである。感動しないからである。自動車競技に興味を持っていらっしゃる方は、別の感慨があるのかもしれないが。

100m走はそのうち、記録的な停滞に陥り、スターが不在となり、あーそういう競技ってあったんだねって、オリンピックの綱引きと同じような、郷愁のスポーツになるかもしれない。キーは、観客が感動するかどうか、である。

将棋は、近い将来、AIが確実に人間より強くなるだろう。今でも局面に限れば、人知をはるかに超えている。しかし、人々はそのことをもう忘れて、藤井聡太に熱狂する。彼がいくつのタイトルを取れるのか、誰がそれを阻止するのかが、興味をそそるからである。彼がAIより強いかどうか、など誰も関心を示さない。つまりAIが人間より強いことに、もはや「意味」がない。

それに、もしAIが人間より強いことが問題であるなら、それはAIの問題、棋士の問題というよりも「将棋というゲームのルールの問題」である。AIが人間よりも強くなる、というルールを設定している側の問題である。将棋という競技が、AIと人間、どちらが強いかというテーマから逃れられたことを、寿ぐべきだと思う。

AIが、人間と同等のプレゼンテーションを行う、アート作品を制作する、という。

だけど、たぶんそのことに意味はない。コストをミニマムにしたい、というビジネスの領域以外では。そして最近つまらないのは、ビジネスロジックのみが世界の趨勢であることである。例えば、コミュニズムみたいなものは創出されないのかな。

あー、誰かが言っていたが、マルクス以前に形成AIがあったら、それは『資本論』を書けただろうか、という。このことには、大変興味がある。