迷惑行動をとる人と、私たちの社会

Staff Blog

「あなたの行動は、みんなに迷惑をかける」のなら、その迷惑はなぜ「みんなでシェアする」という方法で、解決つかないのだろうか

所属集団が求める『活動合理性』は、どの程度まで正当性を持つのだろうか、というのが、いつも不思議だった。

さて今日も、気分障害からの回復を目指す若い患者さんは、時間通りに現れなかった。

電話すると勘違いをしていた、すぐに来院する、と。以前は、何度も予約日の確認の電話が入ったものだが、最近は、日はあっているけど、時間を間違える、というまでに改善した、のかもしれない。

メモを取るように促すが、「メモを取っても、そのメモをすぐに無くしてしまう」とおっしゃる。それでは、しかたがない。メモを取る意味がない。

治療院の予約時間は守らなければならない。

それはその通りである。流行っている院であれば、一人の遅滞が、後続に波及し、みなさんの診察時間にずれが生じる。それでは「みんなが迷惑する」。「あなたにそんな『権利』はない」ということになる、らしい。


私のところは、混んでいない。多少遅刻されても、何とかなるし、予約の調整も不可能ではない。それに、できない人は (まあ言動を拝見していたら、予測はつく) できないのだろうな、と期待値が低い。迷惑だな、とは思うが。


いつからこうなったのだろう?

私が「仕事」をしていたころは、まったく、こうは考えていなかった。たぶん、こういうことにはかなり厳しい上司だったと思う。

まあ今でも、中央線に遅れが生じると、ちっと思うし、客捌きの悪い店では、イライラする。たぶんこれは「仕事」を期待しているからなのだろう。

いっぽうで、私がやっている鍼灸院は「仕事」ではない、ということなのだろう。

つまり「仕事」の特性が、『活動合理性』の絶対追求ということなのだろう。「仕事」の現場では、迷惑のシャアリングなどといった非合理性の挿入は、難しいのだろう。

これに、落としどこを見つけているところもあるのだけど。