人間とは何かについて、考えてくれる人が少なくなった -2

エッセー

「人間とは何か」について考えることの特徴は、それが「答えのない問い」であることである。

たぶん正しくは、答えは、それを問うた人の数だけ、存在している。

そういわれると、それは「問い」とはいえないのではないか、という人がいる。答えは「正しいものが一つある」ものであって、答えが複数存在している状態は「正しい答えを導きだせてない状態」である、と考える。近・現代的な科学の多くの、立ち位置である。

これが、正しいのかどうか、わからない。

しかしながら「答えが無数にある問い」について考える、という行為には意味はないのだろうか。

有名なユダヤ人の話がある。

ユダヤ人は「神から選ばれた民」である。神から選ばれていながら、常に迫害を受け続ける。エジプト人に迫害され、ロシア人に財産を奪われ、ドイツ人に生存を脅かされ、今なおパレスチナ人と戦い続ける。それが「神から選ばれた民」の意味である。

しかも、ユダヤ人は、自分でユダヤ人であるかどうかを、選ぶことすらできない。ユダヤ人として生まれてくるだけである。生まれてしまえば、もはやユダヤ人であり、神から祝福を受けた、常に迫害を受ける人生が待っている。

どうしてなのか? なぜ神は選んだ人間たちに、幸せをもたらさないのだろうか。

答えのない問いである。それを2,000年以上考え続けている。

ところで、宗教は信じることから思考を始め、哲学は疑いから思考を始めるが、いずれにしろ考える方向は同じなのだと思う。それは、答えのない問いへの問い、である。