東洋医学についての妄想 2023年秋 – 2

エッセー

「気」は、変化するもののことをいうと、前回書いた。

ここでいう「気」は、専門学校の教科書や、多くの鍼灸院のホームページなどが採用している、日本における標準的な定義とはいささか異なる。

東洋学は、先哲の教えに、後進が解釈を上乗せしていく。先人を否定しない。付け加えていく。このため、解釈に揺らぎが生じる。これが東洋学の実現方法に、バラエティをもたらす (残念ながら、独善的な理論を生み出す源泉でもある)。

私が教えていただいた積聚治療の創始者、小林詔司先生は、気を、すべての存在の源泉であり、陰と陽に分解して把握される、とされた。気は常に動いていなければならず、気が停まるときは、それが生物であれば、死を意味する。

東洋学は観念学であるから、その観念性を、人事に当てると儒学になり、医事に当てると医学になる。

私は、学を論じたいのではない。

私たち医療者が扱う、人体という、不確かで例外が多い対象に対して、単純性を希求し、合理化を眼目とすると、その対象からはみ出すものがあるだろう。手に余るものが増えていくだろう。暗に西洋医学のことを言っている。

私は、現代医学に不安はあるが、不満は無い。不確かなものを扱うには、扱うすべがある、といいたいのだ。