東洋医学についての妄想 2023年秋 – 1

エッセー

「気とは何か」を現代的に定義するなら (古典的な解釈で定義しないのなら) 巡っているという状態を起こしている一切の「もの」のこと、となるのではないだろうか。巡るという現象を起こしている、一切のものである。

巡っている場所はどこでもいい。

身体でも、社会でも、宇宙でも、ある場所で巡るという現象を起こしている「もの」のことを「気」と呼ぶ。気の内容物は、物質性を持っていても、単なる観察される現象であってもよい。

重要なのは、巡っていることなのだから、停滞してはいけない。停滞すると、問題が起こる。

へんな例えになるが、通貨も気である。

通貨は、停滞してしまうと困ったことになる。適切な流通速度で巡回してこそ、経済は安定する。つまり経済にも、その言葉を使う人がいるのであるならば、気滞や気逆がありえる。ひょっとすると気鬱も存在するのかもしれない。

脱線気味だが、経済にも (あるいは人間の社会活動全般についても) 五臓六腑や、五行や、経絡を定義できるのかもしれない。経済における「肝」とは何か、とか、肝鬱気滞とはどういう症状なのか、などと考えるのは、ちょっと楽しい。

東洋「医学」とは、煎じ詰めれば「身体は、巡るのが正しい状態とする」という哲学のことなのだと思う。