日本鍼灸に、統一理論が生まれないわけ

エッセー

知人の医師が、「治療効果の確認、ってどうやってます?って話。こないだ、とある漢方の先生が、「脈をみない鍼灸師がいる」的な話を書いておられた。」ではじまる、脈診の意義についての書き込みをされていた。

私が医療のお話を聞くときに、いつも不満に思うのは「医療とは、きわめて脆弱なコンセンサスの上に立ったものである」という共通認識を得ることができない点である。

ある先生はまったく脈診しない、ある先生は効果を測るために鍼を刺すごとに脈診する。で、どちらも斯界の一人者でいらっしゃる。脈診が、鍼灸治療の中心的な技術であるのなら、こういったことは起こらないのではないか。

脈診には、どの場所で観察するのかの位置の表現と、脈の印象を言葉に変換する際の専門用語が、ほぼ共通化されているだけで、その意味や、意義については、様々な意見があり、共通の見解を得られていないし、日本では「主要な見解」すら存在していない。臨床と連動した脈診について、鍼灸学校で使われている標準的な教科書にすら、明確に記述されていないのではないか。舌診も、ほぼ同じ状態である。

そのような状態であれば、自分以外の流派に対する敬意があるのであれば、先に書いたように「鍼灸治療では、統一見解を得るのは困難である」という前提で、対話がなされるべきである。そのうえで、何をどのように、議論するのか。

ところが多くの流派の先生は「お山の大将的」であって、自分の論理の一貫性を損なう、他者の理論とのすり合わせとか、違う理論体系で治療を行っているのに、皆さんはなぜ臨床効果を得ているのか、とか、そういう不可避な問いに対する、根本的な立ち位置というのが不在であって、そのために言い捨ての応酬に終始する。

同一学派な内の座談会などを拝聴すると、こういった時間のかかる、非生産的な会話に時間を当てるつもりがないし、その対話を維持するための技術的知識も経験もない。まあ、ひとことでいうと、意義を感じていない。

なんかこういう感覚というのは、困ってしまい、距離を置きたくなる。

まあ、西洋医学も、外から見ると同じように見えるのだけど。