生死に直接かかわる医療だけでなく、人生に関わることを考えるためには、人間とは何かといった主題で、ものを考えることが必要だと思う。それを「人生観」と呼んでみる。
現代の専門家は、医師は医療の範囲で、僧侶はその宗旨の範囲で、学校教師は学習カリキュラムの範囲で、経営コンサルタントはビジネスロジックの範囲で、人生に起こった問題について考える。でも、そのベースにある人間とは何か、という主題=人生観にはタッチしてくれない。コミットが薄い。
かつては、この主題を扱う専門家の発言が広く喧伝された。
専門家は、哲学者であったり、文学者であったり、演劇家であったり、映画監督であったり、詩人であったり、画家であったり、歌手であったり、その発表表現はいろいろであったが、それは人生が単一の表現形式では、伝達不可能なものだからなのだと思う。
哲学は論理で、小説は人物の内面描写で、演劇・映画は脚本・演出・役者の存在感で、歌手や画家は直感で、人生とは何かを、帰納的に演繹的に感覚的に提案した。
そして、これも重要なことだと思うのだが、たぶんいつの時代でも、こういうことに関わる人間は、必ずしも敬意を払われなかった。著書は本棚の片隅に置かれ、身分は低く抑えられ、反社会的な人間と警戒され、社会の日の当たるところに居場所がなかったりした。それでも、いつの時代でも脈々と、人について考察され、物語は語られ、歌は歌われ、占いは占われた。
いつのころからか、文学や映画はエンタメになり、歌手はカラオケになり、哲学はオタクの独り言とされてしまった。陽の下で、後ろ指をさされないで生きるのは、清々しいからかもしれない。
私は、これらの仕事がまだ社会の主戦場にあった、1950年代や、1960年代に戻りたいとは思わないけど、どのジャンルで活躍する方も、世に出されるものの中に、その方の「人生観」が宿っていて欲しい、と思う。そうしないと、自分の人生観を固める機会がないからである。
たぶん、私以外の皆さんは、何か私が知らない方法で、自分の人生観を固めていらっしゃるのだろうが。
どこかで書いた「ファッションは思想だが、デザインは技術である」というのは、その時代の言葉である。