奥さんが、森下洋子のバレーを見てきた。今でも『白鳥の湖』で主演を張っている。黒柳徹子はまだ『徹子の部屋』をやってらっしゃるのだろうか。
森下は足がもう上がらず、黒柳はろれつが回らない。それを見て、引退しないのは労害だという人もいるだろうし、老醜だとも、晩節を汚すともいうのだろう。それは、痛々しいし、見栄えのよいものではない。晩年のホロヴィッツの演奏みて「効率のいい金稼ぎに身を売った元芸術家」目を背けた高校生の頃を思う。
「仕事」とは何なのだろうか。
今日の患者さんは、32歳の男性で(おそらく新興会社の社長さん)、ゴールデンウイークは仕事に振り切ることにしました、という。普段の休みはどうしているのですか、と問うと、7日間休みはないですね、という。
楽しいのだろう。
あるいは「やらなくてはならない」何かがあるのだろう。そして今は「生きている実感」があるのだろう。「生きている実感」は「楽しい気持ち」とばかりは限らない。
すでに身体が辛くて、仕事や生活に支障があるから、来院されるのだろうが、この方々に私は何といえばいいのだろうか。仕事が生きがいの老人は、それを止めることはすなわち死ぬことを意味する。
身体を疲弊させる苛烈な仕事人生を送っていると、早々に重病を得る可能性もある。例はいくらでもある。その後の人生に負わねばならない荷物の重みに苦しむ人もいる。
その可能性のある未来と、現実の意識と、何が起こるかわからない将来の人生を、「今」どうやって優先順位を決めればいいのだろうか。誰が決めるのだろうか。
病を得て、それを改善したく思う人への生活指導は、考えやすい。優先順位を決めやすいから。そうではない場合、私ができるのは「身体が破綻しない確率を上げる」努力だけのような気がする。