『おしん』とか、藤山寛美の時代の「松竹新喜劇」とか、宮本輝『道頓堀川 』とか、すごく苦手な物語というのがある。
住んでいる地域の規範とか、美意識の重い重圧に支配され、そこから抜け出す希望と意思を、みんなに絡げ取られてしまう話である。物語は、そういう意図と違うのかもしれないのだれど、私にはそう読める。
前に『ドラえもん』に出てくる登場人物の人間関係に、昔から違和感を感じている、と書いたが、ドラえもんに限ったことではないのだ。
たぶん『ドラえもん』や『おしん』といった物語が語られる舞台、人間関係というのは、非プロテスタント的な文化背景の地域、例えば、東アジア、中央アジアとか、中近東とか、そういう場所では、受け入れられるのだけど、北欧とか、東・中央部の合衆国とか、たぶん中部アフリカでは、違和感を持たれてしまうのではないだろうか。リサーチしたわけでもないので、根拠のない感想なのだけど。
また、中学の時に『ピーナッツ・シリーズ』を読んで、「個人主義」と何か、ということを知った気がする、とも書いた。
ここに登場する子供たちは、他者に干渉しない。自分と他者は違うことが前提で、自分の好みの活動に個人として奮闘する。シュローダーはベートーベンを子供ピアノで独奏し、ルーシーは心理カウンセラーを開業し、ライナスは邪悪な姉がいないすきを狙ってTVを楽しむ。
そういう子供社会の中で、チャーリー・ブラウンは、野球チームのキャプテンとして、何とか全員を妥協点に導き、チームを勝利に導きたい、と悪戦苦闘するのだけど、人生はそう甘くなく、彼のチームのメンバーたちは、それぞれの思惑のために、チャーリーの目論見は、いつも失敗に帰する。
で、吉田兼好のようなビーグル犬のスヌーピーに、人生訓を授かり、それで何とか希望を失わず、明日を期するのだ。
1960年代から70年代に、日本のある種の若者たちがアメリカにあこがれたのは「ロック」とか「ファッションスタイル」とかではなくて、そこに横溢する個人主義が優先される社会がうらやましかったのではないか。まあ、ほとんどのロックバンドは、何枚かのピーク作を残して、喧嘩別れし、ほとんどの文化的企ては、金銭的にも、政治的にも頓挫していく。でもね、なんかすごいのは、アメリカ人って、みんなあっさりあきらめて、引退とかしないのだ。
私がテニスを見ていたころ、スウェーデン人のビヨルン・ボルグがウィンブルドン選手権を6連覇しているときで、ライバルは、ちょっと頭がおかしいんじゃないかのアメリカ人ジョン・マッケンローだった。ボルグは、ついに全米オープンを勝てず、燃え尽き、若くして引退したが、マッケンローは長い現役生活を、浮き沈みとともに過ごして、引退した。セレーヌ・ウィリアムズのキャリアなんか、もっとすごいのではないか。本当に、くじけない人たちである。
この潔よくない人生というのは、私にはとっても魅力的なのだ。人生には、選択肢と、撤退と、再起がセットになっているべきだ。これをアメリカンドリームとはいわないのだろうが、やる・やらないを、個人の心情に依拠する前提の社会というのが、息苦しくなくて、いいのではないか。まあ、欠点もわかるのだけど。個人の人生なのだから、個人の事情で選ばせてほしいものである。
前にも書いたが、お気に入りは、毛布を手放せない、情緒不安定なライナスである。彼が感じるように、社会はルーシー的な邪悪さと、無慈悲に満ちていて、そこからの安らぎを得るためには、自分の体臭の染みついた毛布が手放せない。彼もきっと、適応障害である。たぶん私も軽く適応障害である。そしてあなたも、どこか適応障害である。
で、「チャーリー・ブラウンは、人生にドラえもんを必要としないのだろうか」
必要としないのだろう。問題があれば、自分の力で解決できるはずだし、だからトライさえ続けていれば、いずれ解決する。「神は、その人が解決できる以上の難題を、押し付けはしない」的な楽観が基底にある気がする。
日本的な美意識の結晶体のようなNHK朝の連続テレビ小説に、宮藤官九郎の『あまちゃん』が登場したときは、その背後にある楽観が好ましいと思ったし、散々けなされた大河ドラマの『いだてん』も、とてもおもしろかった。しりあがり寿作ではあるが『真夜中の弥二さん喜多さん』を一方で作れて、これも作れるのだから、大したものだと思った。
ちょっと関係ない話で終わってしまった。