亡くなった両親、とくに父は「自分が生きた痕跡を残さずに、死ぬ」ということを考えていたのではないだろうか。最近、そう思う。
ふつう、人は生きると、金とか、実績とか、負債とか、何らかの影響を、後の世に残す。彼はそれを潔くないこと、としていた気がする。あまり妥当な言葉ではないけど「自分が行きていたことで、人に迷惑をかけたくない」というような。
とくに厭世的な人ではなかった、と思う。趣味も多い人であったし、晩年は、穏やかに日常を過ごす人であった。
気になったのは、彼が一切の写真を始末して死んだことである。
いろいろあるべきものがなかったので、写真を選択的に始末したのかどうかはわからない。でも、私を含む家族の写真も、自分たち夫婦の写真も、未婚の時代の自分のアルバムも残っていなかった。
こういう感覚は、一般的には理解してもらえないように思うのだけれど、今から思い返すに祖父にも、そういう側面があった気がする。
たぶん「恥」という感覚に含まれるものではないか。「生き恥を曝す」というときの「恥」である。いま一般に使われている「恥」とは、違ったものであるかもしれない。
「金」についてはどうなのか。子や子孫に残すのがいいのか、残さぬのがよいのか。
たぶん、それはどちらでも、よいことだったのだろう。自分は質素に暮らしていたが、それが性分であったから。自分がいなくなったあと、何が起こるのか、それは後代のことであって、自分の思慮とは関わりなく、決まっていく。だから、どちらでもよい。金があって、よいこともあるだろうし、金があることで、幸から遠ざかることもある。わからないことは、どうでもいいことなのだ。
もしある時代の「日本人」に、この傾向があるのだとするなら、それは「失われつつある日本人の感覚」であるだろうし、一般性のない感覚であるのなら、私の一族に引き継がれた、諦念なのかもしれない。
死とともに消えてなくなり、生まれる前の世界に戻る。
この感覚が「SNSの投稿を始末してから死にたい」というのと同じなのか、ということを考えていた。