精神的支配関係と、友人

エッセー

今でもすごく嫌いな言葉に「部下は上司を選べないが、上司も部下は選べない」というのがある。こういう社会に違和感を感じない方に、別に異議を申し立てることはないけれど、個人的にはこういう価値観のなかで、人生を送るのは、たいへん苦痛を感じる。

これと同じような感覚なのだけど、『ドラえもん』に出てくる登場人物の人間関係に、昔から違和感を感じている。

私は『おばけのQ太郎』や『パーマン』の世代でなので、『ドラえもん』についてはっきりとは言えないのだけど、のび太、ジャイアン、スネ夫という男子のグループの中には、力を背景としたヒエラルキーが存在していて、それを前提に人間関係が運営される。こうした関係性に支配された人間関係を「友人」とは呼べない。私はクラスメイトに「友人性」をいつも求めていたので、『ドラえもん』の物語に拒絶反応があるのだと思う。

『ドラえもん』に出てくる人間関係は、女子の静ちゃんと、男子の関係性を含めて、たぶん日本的な、あるいは昭和的な人物関係で、これはこのままの形で「会社」に存在している関係性とまったく同じなのだと思う。

私は、最初の会社を辞めたとき、こういうグループの中に入るのは、避けて生きていたいな、と思った。ドラマの重要な構成点である、ドラえもんの能力とは、まったく関係ない話ではあるが。

ドラえもん的な子供社会に対する違和感の正体は『ピーナッツ・シリーズ』を読んだときに、理解した。シュルツ作のスヌーピーが出てくる子供漫画である。たぶん小学校上級年に、友人宅に遊びに行ったときに、彼の姉の本を読ませてもらったのだと思う。

このシリーズで私は「個人主義」と何か、ということを知った気がする。

お気に入りは、毛布を手放せない、情緒不安定なライナスである。彼が感じるように、社会はルーシー的な邪悪さと、無慈悲に満ちていて、そこからの安らぎを得るためには、自分の体臭の染みついた毛布が手放せない。彼もきっと、適応障害である。

ルーシーとジャイアン、チャーリー・ブラウンとのび太を比較したり、チャーリー・ブラウンは、人生に、ドラえもんを必要としないのだろうか、とか考えるのは、楽しいことだと思う。