先天の幸福と、後天の幸福

エッセー

東洋医学には、先天の精、後天の精というのがある。前者は生まれながらに持っている形質・資質、後者は生きていくうえで体得した形質・資質 (原義を意訳している) の意味だけど、これは人生のあらゆる断面に、当てはまるのではないか。

例えば、先天の幸福と、後天の幸福である。

養護施設と呼ぶのか、親と別れて暮らす子供たちのドキュメンタリーを見た。国籍の関係で、得られる市民サービスの限界に痛む人を見た。

同居している場所は「家」ではなく「施設」であり、一緒に育つ人々、世話をしてくれる人々は「親兄弟」ではない。血のつながっていない人を「兄弟とは呼びたくない」という。

欲しかったと思い、でも、神さまから、配られなかった幸福というものがあるのだろうか。私は個人的には、そのようなものはない、と思っている。それは砂漠の逃げ水のように、遠くから見ると美しく存在しているが、手にすればさほどでもないものなのだ。でも、それを試すことも、証明することも不可能である。

あらかじめ失われてしまったものは、手に入れることができない。取り返すことができるのは、後天の何某でしかない。これは、残念なことなのだろうか。不幸なことなのだろうか。

後天の何某で、先天の何某に対して、相殺を試みるチャンスがあることが「幸せ」と言えないのだろうか。

人生の特質は細分化すれば、運動の才、論理的思考の才、人に好かれる才と、無限に美徳と資質はあって、これらには先天と後天がある、あらかじめ配られた美質と、努力して獲得した美質を自覚的に組み合わせて、人生を生きていく。これが「平凡な人生」なのだと思う、平凡な幸せ、というのを望むのなら、これでいいのだと思う。

正月の感想としては、めでたいものではなのかもしれないけど、人生の希望という点では、めでたいお話なのではないかと思っている。