音は人を愉快にも、不快にもする

Staff Blog

音大出身で、ある医療機関に属して、音を使った治療を行っている患者さんがいらっしゃった。施術の後、時間があって雑談をした。やっていらっしゃることは、大変おもしろかったのだけど、この辺りの感覚について、世間での認知はまだあまり高くないことを思った。視覚、臭覚、聴覚の、快・不快について、それらの身体への具体的な影響についてである。

この方は生活音のすべてが音階に聞こえてしまい、まるで譜面を読まされるような、記譜させられているような感覚から逃れられない、とおっしゃる。

それは「音楽」ではないから。無視しようとするのだけど、その感覚のコントロールがお上手ではなく、折り合いをつけて暮らすことに苦労されている。もちろん絶対音感がある方でも、かなりの方は、その能力を日常生活ではOFFにして暮らすことが可能なのだろう。でも、この方は、それができない。興味深いことに、趣味で、無調音楽のミュージシャン活動をなさっている。伝統的西洋音楽では、いけないらしい。

ところで、世界は、多数派の美意識や善意で埋められている。

昭和の時代は「音楽を聴く」ということが、今ほど簡単ではなかった。まず再生の道具がなかった。昔話で恐縮だが、私の生まれた家にはTVまだなく、ステレオを買うほど豊かではなかったので、箪笥の上に置かれた据え置き型のラジオが、唯一の家庭にエンタテインメントを運んでくる機器であった。食事中はラジオは禁じられていたので、食前食後に、音楽やニュースが流れてきた。

だから、ソニーがウォークマンを発売した画期は、自分の好みの音楽を、自分一人で、外で聴くことが可能になった点である。

そんな時代だったから「商売の現場」では、サービスとして音楽が積極的に流された。駅前商店街、百貨店、江ノ島海水浴場などでである。屋外用のラウドスピーカーから、割れた音でジャズや歌謡曲が流れていた。日本中の学校の昼食時にも、サービスされていたのではないか。

今でもほとんどの病院の待合では、小さな音量でBGMが流されるか、TVが用意されている。患者さんの、待ち時間から注意を逸らす目的もあるのだろうけど、幾分はそういうサービスが当たり前という意識が残っているような気もする。それとも「静かである」とか「人の気配がある」ということに、不快や不安を感じる方が、大多数なのだろうか。

音楽は、人を感動させる。人の情動を大きく動かすことができる、平たく言えば、人を愉快にさせることも、不快にさせることもできる。たぶん社会の10%の人は商店街の音楽に気持ちが弾み、財布のひもが緩み、80%の人の耳には入らず、10%の人は不快に耐えねばならないのではないだろうか。

つまり、90%の人にとってはネガティブに働かない。10%の人はマイノリティである。