以下は、私の雑感というか、幼稚なマニュフェストのようなものであり、斯界の専門家にお目にかけるような代物ではない。粗々である。気合である。今の気分である。
西洋医学は、要素還元主義であるから、宿命的に、事象の細部の差異を観察し、それに対する合理を求める。したがって、理論の進化は、より細密で、より精妙な技術の開発に向かう。病症を分類し、名前を付け、機序に(当たり)をつけ、治効すると思われる薬物を開発する。
我々の東洋医学も、中世の人間主義の目覚めの時期から、この傾向があったが、19世紀になって、うっすらと西洋医学を知るようになってから、「精神」は「脳」に宿るなどと言い出す学派が現れる。「精神」は「臓器(臓腑)」に宿る、という歴史的な見解を捨てて、「存在は確認できるが、役割は不明瞭」程度の扱いだった脳の地位を引き上げた。でも、一方で、五臓六腑のヒエラルキーは、歴史主義を墨守する。つまりは、東洋医学も、自己矛盾を恐れることなく、理論の細分化を目指すことで、治療技術の進化を図り始めるわけである。
まさか21世紀の世の中に、西洋医学を全否定し、東洋医学の絶対的な優越を論じる専門家の方は、(そう多くは)いらっしゃらないと思うが、それでも上記のように、理論の緻密性を求めて、細部の森に分け入られる方も、少なくないように思う。一度乗り方を身につけた自転車は、もう乗れないふりをできないように。西洋画的デッサン技術を身につけてしまえば、二度と純古典的な日本画を描けないように。みんな、宿命的に、この坂を下る。
これらの理論の本を、ささやかながら読書したのだけど、私は理論の無謬性を信じることができないので、あれこれ知ると、あれれあれれと、首をくるくる回し続けることになる。
もういいのではないのか、と思う。私は、できるだけ、単純にしたいと思う。
今さら素朴に『黄帝内経』を墨守するのは難しいと思うが、それでも人体把握と、治療手段は可能な限り、枝をそぎ落とした単純なものを求めたいと思う。
細部を正確に修復していくことで、ゴールを目指すのも、全体像を把握しながらざっくりと修復することで、ゴールを目指すのも、どちらか一方だけでやってもいいし、両方のいいとこ取りをしてもいい。ヘリコプターを飛ばしても、沢を這い上っても、目指すのは同じ山頂なのである。同じ山頂であるべきである。
「単純化は結構だが、それで病を癒せるのか」と言い出す方々とは、議論の地平が異なっている。議論は、同じレイヤーで行わない限り、意味が無いと思う。