「普通である」という病

エッセー

どうやら世界では、多様性や、少数派との共存という、高度な妥協や、政治性を伴う社会創造を放棄して、多数派の、多数派と思われる人々が、心地いい社会の建設に、梶が切られたようである。心配である。

世の中には、「普通」であるとか、そうではない、とかいう基準があり、それとは別に、社会的ステイタスの序列、というものがあり、「世間なみ」とか、「上から」とか、いろいろな表現で差別が行われる。

この問題に、軽率に介入すると、簡単に機銃掃射を受けてしまうので、なかなか口軽くものを言うのは難しい。私は老人だから「そういう時代になった」と言う。「そういう時代になってしまった」とも「そういう時代にしてしまった」とも言う。

また、私は医療従事者の端くれであるから、少数派であるのか、将来はハッピーな方向に向かうのか、そうでないなら、どこまでで失地を挽回できるのか、ということに、関心が向く。

当たり前ながら、社会では「病気ではない人」が多数派であり、医療サービスを受ける方は例外なく「少数派」である。

いっぽうで「病気であるかどうか」だけが、多数派と少数派の分岐基準ではない。世界にはあらゆるところに、分岐基準が用意されている。男か女か、肌の色、アトピー性皮膚炎かどうか、高層マンションに住める人、私立大学に進学できる人。いくらでもあげられる。つまりすべての人間は、何らかの基準では「多数派」であり、別の基準では「少数派」である。

このことについていろいろ考えたのは、LGBTQ+ について少し思うところがあったからである。ジェンダーとセックスと、家族と職業選択について、である。このことも、おっとりとは書けない問題であるので、ここに書くだけの準備時間を取れない。備忘のためにこれを残す。

これも当たり前のことであるが、すべての人間が LGBTQ+ の「当事者」である。例外は、ない。