希望という神話

エッセー

年を取ると「希望の限界」を予測するようになります。視野狭窄に陥ります。だけれど「希望のない人生を生きる」のは、つらいことです。

この年末年始は、初詣を3社(例年より少ない)と、去年と一昨年のNHK『ドキュメント72時間 年末総集編』を見て終わりました。

『ドキュメント72時間』には希望があふれていて、とても好きな番組です。ドキュメントと名のりながら、人生の希望を抽出して、濃縮してくれます。これを見ると生きていくのに必須の「希望」という「神話」の補充がかないます。悪い言い方をすると、合法ドラッグのような、SSRIのような。

今年もいろいろあったけど、「なんもしない人」がよかった。で、「はりときゅうだけをする人」を目指そうと思ったのだけど、これはとっても難しいな。でもいつかは、そうなりたいな。

あと、いくつか考え事をしました。

「笑い」というカタルシスよりも、「希望」という神話を好む人がいます。これは、個人の資質なのだろうか。その人の、メンタルのありようなのだろうか。

もう一つ、「性」というのは、生きる希望になるのだろうか。「生きていくための希望という神話」になるのだろうか。

難しいですね。