生きていることの違和感の正体について

エッセー

昭和の映画を見ていると、喫煙シーンがやたらと出てくる。刑事たちが貧弱な証拠から犯人を推理するシーンというような緊迫した場面だけでなく、デパートガールが気晴らしに出かけたパーラーでおしゃべりに興じながら吸殻を積み上げたりする。30秒ごとに誰かが煙草を吸う。

最初は、喫煙に対する風俗的な感想の差だけであって、映画の主題とは違うのだから、いちいち気にかけなくてもいいのではないか、などと思っていたのだけど、喫煙者に対する今のような習慣がもう10年以上も続くと、こちらの心の中の何事かが変わってしまい、登場人物の不意の喫煙にどきっとさせられる。この感情の発露にも、いろいろない混ぜになった根があるのだけど、それの言及は棚に上げる。

以前、LGBTQ+ について少し書いたことがあるのだけど、LGBTQ+は、一義的には、セックスやジェンダーの問題ではあるが、本質的には、社会における個人の人権の問題であり、その上に構築される人間関係の再検討の問題だと思う。

どの問題も、大変厄介で、どこから考えるのか、何の解決を図るのかによって、種の起源から始めなければならなくなったり、民法の条文の見直しで用が済んだりする。夫婦別姓の問題であり、死後の墓の問題であり、扶養者控除の問題であり、夕陽に想いを馳せるその感情の出自の問題でもある。男女共用トイレの問題、というわけでは決してない。

煙草について書いたのは、映画や歌謡曲の中の、その主題ではない登場人物のささやかな感慨や、行動や、社会的立場に対して、違和感が生じ、それが避けがたく心に広がって、物語を鑑賞する余力を失うということを言いたかった。よくBSなどで、過去のドラマの再放送をやっているのだけど、みなさんはこのような違和感を感じないのだろうか。「懐かしいな、昔はこうだったな」と、ノスタルジーだけを楽しむことができるのだろうか。

そのような過去をご存じない若い方は、昭和初期の夫婦間の関係性や、会社内の支配関係などをご覧になって、どう思われるのだろう。歴史の教材のように思われるのだろうか。

古典というものがある。めんどくさいので、ゲーテでも、アリストテレスでもなく、手塚治虫、あるいは長谷川町子にする。

15歳の少年少女は、「少年」連載時の『鉄腕アトム』や、「朝日新聞」連載時の『サザエさん』を、現代の作家の作品とシームレスに受け入れることができるのだろうか。

古典というものは、古典として声明を持つことは可能であるけど、現役性を維持した同時代作としても生きることは。不可能なのではないだろうか。