『君たちはどう生きるか』の雑感 (承前)

Staff Blog

(本編は『君たちはどう生きるか』の内容についての情報を含みます)

今日、30代後半の女性と『君たちはどう生きるか』について、話をした。

映画終了後、背後の客が「こんなサイコパスな主人公じゃ、感情移入できないよ。金返せ」と声をあげたという。

私には、主人公の少年は、凡百という意味での「普通」ではないかもしれないけど、クラスには一人いた、生真面目な「昭和の少年」にみえた。複雑な内面を抱えているが、それが外面に浮き出ることを潔しとしない。そのような振る舞いは、美しくないし、正しくない、と考えている少年である。ただし、その鬱積は行動で表現される。それが令和の観点からいうと、他者に対する敬意を欠いた、残虐性にみえるのかもしれない。昭和の男子は平気で蟻を踏み潰したし、美しい蝶の羽を毟り取ったりしていた。

彼女は、自分も昭和の生まれであるという。玄関の框に居座り、母相手に新聞購読をしつこく迫る、押し売りの拡張員を覚えている、という。あれは、潔さと、エゴイズムが平気で併存する時代であったと思う。

主人公の少年を、私と同時代の人物と呼ぶには、多少無理があるかもしれない。私は「高度経済成長期」の少年であり「戦前の少年」でも「戦後の少年」でもないから。

彼のような人間は、私の世代では希少ではあったが、私の父や叔父が少年の時は(つまり『君たちはどう生きるか』の時代)、多くの少年はこうだったのではないか、と思う。身の回りにいた大人たちは、そういう気配を窺わせていたから。

その意味で、この映画は、昭和の鎮魂なのだ、と思う。

今作は「スタジオジブリの単独出資」らしい。つまり関係者が一堂に、宮崎駿の集大成を、彼の個人作という形で結実させようとした結果なのだ。つまりは、エンターテインメントではなく、純文学である。背後にどのような思惑や、協力や、算段があったのかしれないが、アニメという、分業制が進んだ商業芸術の分野で、これだけの達成を実現したことが、奇跡のことのように思える。

この先、長島が、王が、加山が、沢田が亡くなっていくだろうが、晩年なっても自我を表現できる気力があること、宮崎駿という作家の個性と、彼が掲げる昭和という幻想の灯火の余光を、もう一度味わえたことを、とてもうれしく思う。そこにこの映画の価値があるのだと思う。

蛇足だが、宮崎駿個人の政治的立場は、社会主義風味の「戦後民主主義」である。自然保護とか、非戦主義とかと親和性は高いけれど、対立する価値観の巧妙な調停という作業は、あまり達者ではなかった。ナウシカや、もののけ姫は、その物語の結末は、彼の手に余ったのではないだろうか。

今回の物語の取りとめのなさは、彼が「結末」を棚上げにすることを許された結果だと思う。なので、時間をかけて物語の意味を考察しても、一貫した答えは導き出せない。彼が好きな絵や、動きや、人物のたたずまいや、鳥や、飛行するものを、思いつくまま継ぎ足していっただけだから。

宮崎駿は、二次元の絵を魅力的に動かすことに長けていて、それゆえ感情移入できる特徴的なキャラクターを作り出すことに巧妙であったから、みんなに好まれたけど、私見では、歪んだ形の作品も多かったと思う。

今作は、宮崎駿の (初めての) 純文学である。作画、色、動画など、アニメーション技術として、めまいがするほどの完成度である。同じように恐ろしい完成度の高畑勲『かぐや姫の物語』とともに、日本アニメーション史上の金字塔であり、スタジオジブリの (おそらくは) 大団円だと思う。

前記のようなお客が、間違って入らないように、鈴木敏夫はわざわざ宣伝しなかったのに、深読みして映画を観て、自分の期待と違うものだったからといって、逆恨みしてはいけない。