食事は、やっぱり大切なのだな

身体へのヒント

今日の患者さんのお話。

100歳を越えたお母さまが、心不全で、あと1週間と、余命宣告される。で、それから頑張って毎日食事を作り、施設に通って、一緒に食べた。すると、だんだん量を食べれるようになり、先日は誕生日だったので、握り寿司を持っていったら、マグロを三貫食べ、まだ手を出したから、さすがに止めた。検査値もよくなり、見舞いに来た孫たちと、楽しそうに話すようになったと。

不思議なものだ。

私の父も、89歳のとき、消化器の癒着がひどく、嚥下障害もあるので、延命をどうするか相談したい、と関西の病院に呼び出しを受けた。意識はしっかりしていたので「なんで飯食わんの?」と尋ねると、小さな声で「まずいねん」という。

で、先生に相談すると、まあ年齢も年齢ですから、と、食事の持ち込み許諾をいただく。弟夫婦が、牛肉弁当を持っていくと「やっぱり肉はうまいなー」と喜んだと。半夏厚朴湯を飲ませながら「元気になったら宝塚に三田牛のステーキを食べに行こな」というと「楽しみやなー」とほほ笑んだ。

思い出してみると、私の両親は関西人らしく、肉=牛が大好きだった。家庭でのごちそうは、牛のすき焼きで、何かあると、梅田阪神百貨店地下食品売り場の「大井の肉」のセットを送ってきた。ごちそう=肉の文化の「すりこみ」があるって幸せなものだ。

上記の例は、幸福な例外なのかもしれない。しかし食事と「元気であること」の間には、、強い相関性がある気がする。美食である必要も、最善の栄養バランスの食事である必要も薄い。

患者さんのお母さまも、娘さんと一緒に食べる食事だったから、おいしかったのだろうし、父も幸福な記憶とともに食事できたことが、食欲を喚起したのだろう。

父はそれから2年生き、朝食の片づけに来た、施設スタッフの方が声をかけたら、ベッドで亡くなっていた。