神経をすり減らす仕事と、身体 -2

Staff Blog

「どういう価値観で生きるか」を、しっかり持っている人を「大人」と呼ぶのなら、そこには「生死に関する価値観」も含まれているはずであり、どういう生き方をして、どういう死を受け入れるか、ということの準備も、含まれているはずである。

大人になる仕組みは、かつては多くの場合、所属団体の文化として伝搬された。「普通の人生」を送る人にとっては、大学で難解な議論を経るとか、修行三昧の生活を送るといった、特殊な鍛錬の結果として、得られるものではなかったのだと思う。

例えば、東京であるなら、今では下町と呼ばれる地域に住んでいた「庶民」の方々のあいだでは、そういう人生感覚みたいなもののコンセンサスが得られていて、子供から大人へ年齢を重ねるうちに、自然と「人としての正しいふるまい」を身につけていった。

そういうものを、哲学や宗教学から、知的に会得しなければならない「山の手の人」は、松竹の有名人から「あんちゃん、インテリだな」と茶化された。

彼らのメンタリティについては、半村良の『小説 浅草案内』を読まれるといい。理想化されてはいるのだろうが、昭和の時代を灯し続けた電燈の光について、淡々と語られる。

こういう方も、身体に不調を得た場合、医療機関を受診される。

生活を伺うと、「健康生活」の理想からほど遠い。「今さら酒を止めろって言われてもよー」というのは、自制心のなさの表れではなく、悪しざまな「自分の人生観の宣言」である。

そういった人たちに「もっと、身体を気づかわないとだめじゃないですか!」と言えるだろうか。私には、言えない。

こういった人のなかには、度量のある方も多いから「ありがとね」とか「すみません」とか言ってくれるかもしれないが、それが本音ではないのだ。

自分の体験を離れ、自分が経験したことがないような人生があることを、想像できない人を「こども」という。

そういった方たちと、私たち医療関係者の接点を、どこに定めるのか、とても難しい。われわれの人生観を問われるからである。当然「大人であること」を求められるからである。多くの人は、税金や保険などの、社会システムのせいにしてしまうのだけど。