生きていると「望みとは違う結果を、受け止めなければならない」ということに出会ってしまう。
私が生きてきたいつの時期からか、「それを見切って、別の選択肢を選ぶ」ということができるようになった。できなかった時代を「近代」と呼ぶのなら、それが「現代」の始まりだと思う。
近代では、その思いが叶わないと、思いを殺すとか、思いを供養するとか、何かの「弔い」が必要となる。
世俗に生きる一般の人間は、それを宗教などに託せない。代わりを果たすのが『芸能』であった。浄瑠璃も、能も、歌謡曲も、思いを叶えられない人の、その思いの「行き場」を提供するものだった。
あるとき「それじゃ重すぎるよね」という人があらわれ、芸能からその重みを切り出すことに成功する。作家表現として独立させる。「現代」の始まりである。「思い通りにならないなら、別の思いを選べばいいじゃない」という人生の発明とともに「娯楽」としての芸能が生まれる。
でもね、なんだか私は古い人なので、ときどきそれにがっかりする。映画も、音楽も、漫才も、情念の昇華を果たしてほしいな、と思う。ある種の人々は、今でも近代が続いているから。