君がみようと決めたものを、僕もみることにしようと決め、君がみないことにしようと決めたものを、僕もみないようにすることに決めた。
君は、トランポリンを跳んでいる。それは深く沈むほどに高く跳べる、と君は言う。君はさらに深く踏み込んで、さらに高く跳ぼうとする。
誰も見ていない平日の昼下がりでも、みんなが寝静まった深夜二時でも、僕は君の最前列の応援団だ。
君のために歌を歌い、君のために旗を振る。
それは君が美しいからではない。君が勤勉だからではない。君が心配だからでもない。
君が宙返りするところを、君だけが見れないその姿を、僕は瞳に焼き付ける。それが僕の役目だと思う。
色んな人が、入れ代わり立ち代わりやってきては去っていく。
ある人は見蕩れ、ある人はただならぬ気配に目を逸らし、ある人は自分を見てほしくて躍起になり、ある人は担ぎ上げて商売をしようと企む。
「涙の数だけ強くなれる」とか「悲しみの数だけ優しくなれる」とか見当違いの慰めで、懐柔しようとする人もいる。「地球の地面はそんな風にできてないよ」とわざわざ教えてくる人もいる。
君が言わないなら僕が代わりに言う。『だからなんだというのだ。』
例えば、そのために血が止まろうが、そんなことはどうってことないくらいに、君はある瞬間にやってくる「出来た!」がたまらなくて、そのために人生の時間の大部分を捧げたって構わない。寝食を放り出して、真剣な遊戯にのめり込んでいたい。なにかを削っていると言われようと、そういう風に生きている。
「そのおもちゃから降りろ」と言うことは、人生の希望を捨てろと言うことだ。生きる喜びを手放せと言うことだ。君が文句をつけないなら僕が代わりにブーイングをする。君が殴りに行くなら僕は声援を叫ぶ。それが応援団というものだ。
結局、人々が知りたいのは、君がみているものは本物だったのかまやかしだったのか、と言うことらしい。
それについては、きっと時間だけが、本当の審判をする。
でも、僕も君もいなくなった後も、織られた機の、ほんの欠片くらいは残るだろう。
その一点だけで、それは部分的な勝利である。
さて、僕はここまでで、半分のことしか言わなかった。半分と半分。もう半分を、僕は言わない。
君は言わなくても、たぶんもう十分に分かっていることだから。
君はみないことにしようと、そうしようと決めているから。
本物ではないものが、嘘や幻なわけではない。
それは虹よりも不確かな、七夕の夜の逢瀬みたいなものかもしれないけれど、僕たちはそれに願いを託して、君が宙を回る一瞬に、僕が君を見つめる瞬間に、同じ空をみている。