サステナビリティと個人生活

Staff Blog

「何を今さら」と言われるようなグチ話を書いておきたい。

長野の家の給湯器が調子が悪い。この家の暖房は給湯器を使った床暖房である。さて、壊れたのかどうか、修理が必要なのか、素人の私にはわからない。給湯器の前には雪が降り積もり、事態が楽観的ではないことだけはわかる。

昨今のメンテナンスサービスは、みなさんもご存じのように、Webから「サービス申し込み」を行い、先方からのリアクションを待たなければならない。20世紀のように、さる場所に電話をすると、担当してくれる「個人」が対応してくれる、ということは望めない。
故障された側にはいろいろ事情があり、急を要すものもあるだろうし、見通しだけでも早急に得たい、という場合もあるだろう。残念ながら、そういう希望は、現代では叶えられない。

不思議なのは、新しく給湯器を買う、という場合は、特に問題はない。ガス屋 (あれはどういう商売なのだろう、いまだによくわからない) に出かけ、取り付ける機種と、工事の日程を協議したら終わりである。両者に都合のいい日時に、問題なく給湯器は取り付けられ、稼働する。給湯器の新品を入手するに、問題はない。UNIQLOで、エアリズムTシャツを1枚買うのと違いはない。

こうしてみると、現代の商品の販売価格には「修理サービスを受ける権利」というものが含まれていないのだろう。「売価」にではなく、商品自体に、修理を受ける権利を担保する仕組みは放棄されているようにも思える。

いつからこのようになったのかは、明確である。

商店街から個人商店がなくなり、地上げされた土地にスーパーマーケットができ、それがホームセンターに変わり、コンビニができ、ドラッグストアが街中に増殖したからである。同級生の家の収入源が、豆腐屋だったり、大工だったり、郵便局だった時代が、ITエンジニアに、デパートの店員に、保険会社の人事職に変わったときである。

これが、買い間違えた商品の交換にあまりに複雑な作業を強要されたり、契約中の通信サービスを解約するために、いつ繋がるかわからない電話の呼び出し音に耐えなければならなかったり、ひびの入ったサッシガラスの修理にサッシごとの取り換えを求められる理由である。

環境負荷の少ない永続可能性の高い営為=サステナビリティというと、企業レベル、政治レベルの話になりそうであるが、一般の市民にとって「いつも買うところで、いつも買うものを買い続ける」ということが、サステナビリティを高める営為である。「知っている人から、知っている商品を買う」という単純な話である。

20世紀にフォードモーターズが発明した「計画的陳腐化」というマーケティングメソッドが、21世紀の今日でも企業の中心的戦略に位置付けられている。

われわれは、毎年冬が近づくと新しい防寒着を買い求め、今日はイタリア風明日は台湾風のケーキを追い求める。そのたびに、提供者は消費者のし好に追随し、力のある企業は、逆に消費者の嗜好を、毎日新規なものに恣意的にアップデートさせる。

それには資本が必要であり、それを最高効率で増加させるためには、オペレーションの効率が必須である。つまり、野菜も、肉も、ハンバーガーも、縫い針も、世界の中で1社が独占的に供給し、あとは、それを販売するだけの販売店のみが存在する。

この仕組みで一番困るのは、企業家にとって「修理はコストである」「バラエティはコストである」ことである。

商品を設計し、製造し、輸送し、販売するという過程は、単純化が可能である。しかし修理は「多義的」である。同じ商品が、買い手、使い手によって「多彩に=バラエティに故障してしまう」。これに対応することは、資本の効率化を阻む。

したがって、適切な時期に、修理不能な状態に壊れてしまうことが「いい商品」であり、さらにいえば、顧客が、その商品が壊れる前に、その商品に飽きてしまい、自発的に破棄してくれるのが一番よい。

この意味でも、計画的陳腐化に追従してくれる消費者は、重要である。

話を大きくすれば、このような「勝ち組」の企業を、世界市場で「勝ち組」の企業をどれだけ持つか、ということが「国力」であり「国富」であると理解されているのではないか。