占いは最後の手段

占い

しみったれた人生観である。

父●●と母▲▲の子、という血と生育の物語を受け入れることができず、だからといって死にきれず、傷跡を綺麗に治すこともできなかった者が、それでも生きようとするときの、最後の砦である。

のたうち回りながら、なりふり構ってられず、溺れながら掴む藁である。

時間稼ぎである。猶予のひきばしである。

それでもよい。それでよい。

時間稼ぎをしている間に、可能性が見えるかもしれない。

未来も人の気持ちも、本当は誰も見てはいけないし、知ってはいけないと思う。未来は変わるものだし、人の心はその人だけのものだから。信憑性はさておき、興味本位で覗こうとする行為そのものが、禁忌である。

だが、建前だけで生きていけるほど、僕たちは強くない。薄汚れていて、諦めが悪く、抜け穴を探して知恵を絞る。そうして、あらゆる商売が生まれた。

占い師は、お金をいただいて、その人の代わりに禁忌を冒す。「本当はやってはいけないのだけれど、この人のために特別に許してください」とお願いをし、見逃してもらって、すれすれに身を置いて、手を染める。魔女であり、ブラック・ジャックであり、闇営業である。

魔術ではなく論理や科学で、無免許ではなく正規の資格者の手によって、物事が解決するなら、それに越したことはない。その方が全くもって円滑で、現代社会に都合がいい。占いは、頼りなく、いかがわしく、真偽不明の最後の手段である。利他的になされることのみをもって、なんとか免罪符を得る。

それを、まるで万能の杖のように吹聴する方々は、僕と随分考えが違うようで、金のなる木のように考える輩とは、最も隔たっていると思う。

偶然に意味を見出そうと試みる限り、生きることを諦めないでいられる気がする。
自分が今こうして生きていることにも、何か意味があるはずだと思える。

君に占いが必要なくなったら、それは喜ばしいことである。少なくとも現代社会の実生活上は。

だが、占いは、そうではない人のために、そうではない時のために、最後の手段としてそこにある。