医師や、弁護士などの士業の方との間に感じる違和感は、フィクションの説く諸経験の有無に由来するのではないかな、と思う。
今回読んでいるのは、木内昇。名は「のぼり」と読む。女性である。
私は、小説の近作を追うことがないので、この作家の位置や、斯界評価がどのようなものなのかわからないけど、作品を追いたいと思う小説家に、時代小説なのに、同時代性を強く感じる作品に、久しぶりにあった気がする。
最初は夏目房之介の紹介で『茗荷谷の猫』を読んだ。これは、細かく計算された仕掛けが巡らされた、たいへん巧妙な短編集で、木内の未読の方が、最初に読むには適切に思う。力量が、才気が漲っている。
デビュー作は『新選組 幕末の青嵐』である。
新選組である。
海音寺潮五郎から、司馬遼太郎、三谷幸喜のNHK大河ドラマから『るろうに剣心』まで、数多くの小説や、映画や、コミックが作られている。
だから、いまさらと何を書き足せるのだろうか、と思って読み出したのだけど、これがまたとってもおもしろい。
野心と、理想と、政治に満ちた、混乱期の人間の物語である。思ったのは、赤軍派の内部もこういう感じだったのだろうな、と。山本直樹の話題作『レッド』は、革命を志す若者たちの内面に、解説的な形での深入りを避け、実況中継のように、ひたすらクールにアプローチしたのだけど、『新選組 幕末の青嵐』はその逆に、個々の人物の内面に深く立ち入る。
フォーカスされる登場人物は16人に及ぶ。そして、その全員の内面に、同じレベルで潜り込む。著名な土方歳三にも、それほど著名ではない鵜殿鳩翁にも。その場所にいて、その行動に至った、複雑な感情と、避けえない事情があったことを、滾々と書き起こす。
その末に、たぶん、どのような組織、人間集団にも内在する、普遍的な関係性に思い至る。その所属集団が、テロリストではなく、普通の営利追及組織であっても、ボランティアグループであっても。多くの参加人物たちはその中で、重要なものを失う。つまり、ここの沖田総司は、今の私だ、と。
現代女性を描く小説の紹介に忙しく、「時代小説など読んでいる暇はない」としていた書評家 藤田香織が『新選組 幕末の青嵐』の読後に書くように、
自分の信じていたものが、目標としていた場所が、世の中の変化と共に失われる事例は、幕末に限らず昭和にも平成にも、コロナ禍の令和の時代にもあり、今を生きる私たちの心の中にも、同じような感情がある。
これからも、IT技術が多くの仕事を駆逐し、安息を祈って贖ったマンションの価格が暴落し、今を生きる人間は、否応なしに、時代の変化に晒されるのだ。