はじめに
いつでも、どこでも、みんなと心を合わせることができたらいいけれど、うまくできない。
桜の下で集合し、
一緒に虫の声を聴くのだけれど、
月の見え方は様々で、
寒さの中で孤独な戦いをする。
できないことをできないまま、できるふりをして、誤解が生まれるのはよくない。
今年は、なるべくちゃんと説明をしようと思う。
人によっては、しばらく、読んでいてあまり面白くない話が続くかもしれない。
読みたいときだけ、かつ、読む元気があるときだけ、読んでくれればいいと思う。
いて座の季節が苦手
僕には、明確に苦手な季節があり、それはいて座(11月下旬から冬至まで)を中心とした、さそり座から、やぎ座(10月下旬から1月中旬)である。いて座がその底である。さそり座はその予兆のように、やぎ座はその尾を引くように。
なんだか、その季節は、僕が根本的に相容れないと思うものを、象徴しているような気がする。或いは、その根源のような気がする。
そういうものに対して、僕は、どうしても反発してしまうし、時には牙をむいて対抗してしまうし、今のところ、あまり許容する余裕がない。
いて座の季節は、悪気無く、自暴自棄でもなく、当然のように、あっけらかんと、こう言う。
「だって世界はそうなんだから、しょうがないじゃん」
「この世界に耐えられない奴は、死ねばいいだけだよね」
「僕たちも世界も、そういう仕組みなんだよ」
北風に乗せて、真正面から、いて座の季節はそう言う。
生命の宿命を体中に分からせるように。
僕は、その声になるべく耳を傾けないように必死で、みんなのために何か言うことができなくなってしまう。同じように戦っている人がいることは、すごく感じられるし、一緒に助け合えたらどんなにいいかと思うのだけれど、自分の戦いでいっぱいいっぱいになってしまう。
科学的には日照時間の問題ですべて片がつくのかもしれない。ただ、理由が分かったからといって問題が解決するわけではない。
太陽の位置を動かすことなど、僕には出来ないのだから。
弱いものから冷たくなっていくのは嫌だ。誰もが自分のことがいちばん大事になるのは嫌だ。僕は悪態をついて、ジタバタ足掻きながら、ただ、時期が過ぎるのを待つ。
季節は円形をしている
僕は、上から下へ流れるものが嫌いだ。上から下へ何かが流れているという考え方そのものが嫌いだ。
それは例えば、上下関係や血統である。また、権力や弱いものいじめや、憐憫である。
それらを許容することは、いて座の季節が永遠に続くことを許容するようなものなのだ。
一年や一日が円形をしていて、季節は隣り合って巡っているというのに、この世界のどこに、上から下へ流れるものがあるというのだろう。
「親子の愛情を否定するのか」「お前みたいな奴には何も教えられない」「規律を逸脱するのか」と言う人もいるかもしれない。
それらに対して、個別の反論を並べたてることは今はしないけれど、一つだけ言えるのは、僕たちは何かの奴隷ではなく、色んなことを自分で決めることができるということなのだ。もし、今そういう元気がない人がいるとしても、それは仮の姿で、いつかきっと、そうすることができるということなのだ。
なぜなら確信をもってそう言えるのか?
いて座の季節は永遠には続かないからだ。
さいごに
人によってはつまらない話かもしれないけれど、もう少しだけ、続けたい。
僕が許せないものの本質は、たぶん「上から下へ流れる力」そのものではないのだと思う。
人が、生き物ごときが、運命(さだめ)を気取って振舞うことが、許せないのかもしれない。
上から下へ、僕たちに落ちてくるものなんて、理由もなく無慈悲に突然降りかかる天災、疫病、病気、事故、僕の体・形・生まれた場所、寿命、生まれたこと、どんなになっても死ぬまで生きなければいけないこと、そして死ぬこと。それだけでもう、十分だと思う。