星座とは、季節の名前である、と定義したことがあるが、あれは間違っていたかもしれない。
僕は、「〇〇座の季節」や「〇〇座に生まれた人」の更にその下に、「〇〇座そのもの(〇〇座性)」というものが、あると思っている。「〇〇座の季節」や「〇〇座に生まれた人」は、その影響を受けているに過ぎない、と考える。
(これは仮説だけれど)ある時点を境に、季節と“星座”は、乖離していく。それは、たぶんわかりやすく考えるなら、秋分か、或いは夏至。少なくとも、僕が自覚するのは、おとめ座の季節である。そして、最も隔たっていると感じるのが、いて座の季節である。
星座と季節には、関連がある。けれど、それ以上のことはよくわからない。関連に規則性があるのかすら、よくわからない、わからないまま、一生が終わると思う。
少なくとも、僕たちは、一つの波に揺られている。それは、何かスピリチュアルなものではなく、とても具体的に言えば、カレンダーである。暦である。
僕としては、「〇〇座性」よりも、暦のほうが、よほど揺るぎないもののように思う。2024年のさそり座と、2025年のさそり座は違う。全く逆の性質を帯びることさえ、あるかもしれない。「さそり座の2025年」という言い方よりも、「2025年のさそり座」と言うほうが、正確であると思う。2026年には、さそり座は、別のものに変質しているかもしれない。
一年はまるで一生である。
そう考えれば、2025年のさそり座と2026年のさそり座が別人であるのは、当然である。