当たり前のことを、改めて言わなければいけないと思う。
少し前、流行り病が蔓延していた頃、それに対する各自の対策の方針について、様々な考えがあり、それは僕たちを分断させる方向へ向かう流れを、少しだけ、加速させたと思う。
その頃から、世の中には「あなたは“どちら側”なのか」と探り合うような空気が漂い始めたように思う。
いま、別の事柄、あるいはそれを含めた様々な事柄について、近いことが、起き始めている、のかもしれない。
(もしかしたら、それはずっと前から起きていて、これまで僕が気付いていなかっただけなのかもしれないけれど。)
立場を曖昧にしておく方が、賢い態度なのかもしれない。
だが、「ここに行って“嫌な思い”をしないだろうか」という不安を持っている人に、何も言わないでいることの方が、僕は問題だと思う。
治療という行為の、一番最初の何かをすっ飛ばしているような気がする。
だから、当たり前だけれど、当たり前のことを、改めて言おうと思う。
誰もが不調を抱えうる。誰もが生きているからである。
なので、『はじめの鍼灸治療院』には、どんな人も来てくれて構わない。
これが相応しい例なのかはわからないけれど。
例えば、東京で生活をしていれば、日本語ではない言語を話している人たちと居合わせるのは、日常茶飯事になった。
その人が、観光に来ている人なのか住んでいる人なのか、
何にお金を使い、
どんな仕事をしているのか、
「いい人」なのか「悪い人」なのか、
僕にはわからない。
でも、お腹がすいたり、嬉しいことや悲しいことがあったり、
生きるために何かの仕事をしていたりする、ということは、
誰も何も変わらないことである。
生きていれば、色々な事がある。
それは、僕には想像もつかないような、色々な事だと思う。(僕たちの想像力は、知識や経験にも左右され、それは自分で思っている以上に乏しい。)
それぞれの人生のことは、外から外形を見ているだけの人が、「正しい」「間違ってる」と評価をしたり、「ああすべき」「こうすべき」と(求められていないにも関わらず)代わりに考えてやる必要がないことだ、と思う。
国籍がどこであるかとか、
お金を持っているとか持っていないとか、
どんな人とお付き合いをしているかとか、
整った顔をしているかそうではないとか、
髪の毛があるとかないとか、
帰る家があるとかないとか、
犯罪を犯したことがあるかどうかとか、
そんなことは些細なことである。
『はじめの鍼灸治療院』の看板は、どんな人のためにも掲げられている。


