#93 番外編:心肺蘇生と、葬送についての雑感

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※ 死・延命処置・蘇生医療などについて言及しています。ご注意ください。

ちょっと散歩していたら、公園に消防車が止まっていた。消火器の使用訓練をやっていたみたいだった。

その横では、人形がひとつ、地面に置いてあった。心肺蘇生の訓練用の人形だったようで、蛍光色のビブスを着た人が、「大丈夫ですか!?」って声をかけていた。

 

わたしが心肺蘇生の講習ってものを受けたのは、たぶん、運転免許証をとる時の、教習所でのことだったと思う。何にしても、人形に話しかける、というその動作が、とても気恥ずかしいものだった。

 

医学部の学生のころ、学生たちの活動っていうのは、わりと「勉強会」っていう形になっていた。当時はUSMLEがどうとか、っていうひとたちもいたような気がするけれど、どちらかというと、それは個人技で、勉強会になっていたのは、ACLSなんかが有名だったように記憶している。アドバンスト、カーディオバスキュラー、ライフ、サポート、ってことで、いわゆる心肺蘇生(BLS:ベーシック、ライフ、サポート)の先をみんなで練習したり、指導方法を習得したり、っていうことだったのだろうと思う。わたしはどちらかというと、それを遠巻きで見ていた方だったので、中身はあまり、覚えていない。

 

心肺蘇生、とはいうけれど、いわゆる心臓マッサージって話になる。胸骨圧迫法と言われるやつで、だいたい1分間に100回くらいのペースが良いのだ、ってことになっていた。ちょうどアンパンマンのマーチが、♩=100くらいで、あれをお薦めされたような記憶がある。圧迫は、わりとびっくりするくらいに押し込むように、って言われていた。「肋骨が骨折しても、しっかりおさえることの方が大事です」って、どこで聞いたんだったか。そんな話をきいた覚えがある。

 

研修医をはじめた、それも1週間経たないくらいの時に、救急外来に呼び出されて、胸骨圧迫をやったのを覚えている。幸いにして、交代で胸骨圧迫をしている間に、心拍が再開して、そのまま入院になった。「これで何が来ても大丈夫だな」って指導してくださった先生に言われた。いや、何が来ても、って、心臓が止まってたら胸骨圧迫すれば良いけど…って戸惑ったのを覚えているし、今でも「何が来ても」なんてことは全然ない。

 

蘇生された人が、どうなったのか、っていうことについて、わたしは知ろうともしなかった。今から考えたら、どうなっていたのだろうか…?って思うのだけれど、当時は、目の前でひとまず心臓が動くようになったら、それで良い、って考えだったのか、何を考えていたのだろう?って思う。

 

自分が胸骨圧迫した、という経験は、実は、そんなに多くない。実際にやってみると、本当に体力を使う動きで、とても大変だったことは覚えているけれど、わたしはだいたい、どんくさいので、他の先生方がさっさと代わって胸骨圧迫をされているのを、ウロウロしながら見ているのが関の山だった。

 

地域医療研修で、田舎の診療所に訪問していたときには、歩いてやって来た患者さんが一度心臓が止まって、大慌てしながら胸骨圧迫をした覚えがある。わたしが圧迫していたのか、それとも、指導医の先生がやっておられたのか、そのあたりは記憶が曖昧になっている。たぶん、手を出す暇もないまま、ボーッとしてしまっていたのだろうと思う。

事情としては、長時間続く頻脈性の不整脈で、治療方法としては、やっぱり一度心臓を止める、っていうのが正しい方法…?だったらしいので、まあ、間違っていなかったのだろうけれど、「動悸がするんです、って歩いてやってきた人の心臓が止まって…?」なんてことをボンヤリ考えていたような記憶がある。

 

わたしの漢方の師匠は、もともとは手がしっかり動く人だったらしいけれど、自分の著書には昔を振り返って「ある時から、心臓マッサージができなくなってしまいました。それよりも彼岸に送って、手をあわせるようになりました」って書いてあった。彼は医師になったあとで、得度して、僧侶をしていたので、そういう心持ちが優位になったんだろうと思う。

 

逆に、積極的な対処をなにもしないままの見送り、というのも、これまた研修医の時の経験として、ある。モニターはついていたから、心臓が止まってきているのが、それを見るとわかる。こうした場面では、何かをする、っていうことを刷り込まれていたわたしは、そのまま見守る、ということの方が難しい、くらいにオタオタしていたように思う。

 

胸骨圧迫は、死を迎え入れる前の儀式…ではやっぱり無いのだろうと思う。

 

がんの診療を頑張ってやっていた施設で、働いていた頃、ホスピスとか、緩和医療、というものが少しずつ認知されるようになってきていた。けれども、なかなかそちらに転院、というのは多くなかったのか、まだ治療ができる状態、と思っていたのか、という中で、亡くなっていく患者さんがけっこういらっしゃったのを覚えている。

だんだん、緩和医療への転院が一般的になってくる、そんな過渡期だったのだろう。

 

がんが進行した場合、心臓を無理に動かしていたとしても、それだけでは延命にならない、ということはけっこう、ある。DNR(蘇生しない)とかあるいはDNAR(蘇生を試みない)などという、本人や家族の了承を取得しておく、ということが少しずつ形式として増えてきていた、とも思う。

 

ある程度病気が進んでいる時、その病気が進むことで出てくる、避けられない変化としての「死」であれば、それもそれで悲しい話なのだけれど、穏やかな変化を、それなりに穏やかに見ていくことができる、のかもしれない。

 

問題はやはり「急変」っていうもので。まだまだ治療をしている真っ最中に、急激な変化があった場合のことになってくる。

まあ、終末期の患者さんの心臓が止まったりするのも「急変」って呼ぶから、区別がつけづらい部分もあるのだけれど。

 

わたしの受け持っていた患者さんが、それこそ治療中に急変した時には、レジデントの先生がとっさに胸骨圧迫をはじめてくださった。むしろわたしは、その時にも、足がすくんで、ぜんぜん動けなかったのを覚えている。

 

時間は前後するけれど、研修医時代に、これまた病棟で、急変の患者さんに出くわしたこともあった。

当時は病棟の仕事にちょっと慣れてきて、うれしがっていたところで、朝の時間帯に、うっかりナースコールを取ってしまったのがきっかけだった。わたしの受け持ちではなくて、というか、いくつかの診療科の混合病棟だったので、診療科すらも違っていた。何を言っているのか聞き取れなかったので、「ちょっと様子を見に行きますね…」とベッドサイドにいったら、喀血されていたのだと思う。そりゃ、急に喀血したら、喋られなくなるから、言葉での伝達ができなくなって当然だよなあ…って思いつつ、その時の上級医がたまたま近くにいたから呼んで…一緒にその様子を見てもらったら、「ちょっと人を呼んでくる」ってその先生が居なくなって…といっているうちに、その方が倒れたのだったか。

 

そのあとの細かいことは、あまり覚えていない。結局このときも、わたしはぜんぜん役に立たなかった記憶しか、無い。声をかけたその先生が大急ぎで、人手をかきあつめてくださった、のだったろうと思っている。わたしは「この喀血、掃除が大変だよなあ…」なんて、見当違いのことしか考えられていなかった。

 

心肺蘇生をされたあと、どうなるのか、って話をすると、まあ、心肺停止の事情による。うまいこと行くと、そのまま復活して、通常の生活を送ることができるらしい。

心肺蘇生はしたけれど、どうしても意識が戻らないまま、しばらく経過して、そのうち再び心肺停止する、というパターンもけっこう多いようで、この意識がもどらないまま「しばらく」っていうのが、けっこう幅があるみたいだった。

 

そういう、心臓は蘇生したけれど、意識はもどらない、という時には、呼吸も不安定だったりするので、そのままにしておくと、酸素供給が途絶えて死にいたるから、たいていの場合は、人工呼吸器をつけることになる。

人工呼吸器をつけると、肺は強制的に動かされることになる。

病棟で、人工呼吸器をつけていた方が亡くなったことがあった。亡くなった、という判定は、心電図のモニターが完全に停止していたから、なのだけれど、患者さんは、病室で、規則的に呼吸をしていたままだった。

医師として、死亡確認するには、心臓が動いていないこと、自発呼吸が無いこと、(これは聴診で聞き取ろうとすることになる)と、瞳孔の散大・対光反射の消失ってことになっている。心電図のモニターが止まっていても、人工呼吸器がついていれば、呼吸音は聞こえるから、とても不思議な感じがする。

 

人工呼吸器をつけていないと、終末期のいちばん最後は「下顎呼吸」というのになってくる、って書いてある。

これはこれで、なんだか、とっても息がしんどいのじゃないか、って勘違いしそうな、一見苦しそうな呼吸だったりする。心電図のモニターでもそうだけれど、呼吸も「完全に止まったのか…?」って思っていると、しばらくしてからまた一回、みたいなことが時々ある。だから、判定したら、さっさとモニターを外すのだ、と聞いたことがある。うっかり何かのノイズを拾って「動いているんじゃないか?」みたいな話になるとややこしいので。

 

とはいえ、全体としては、やはり西陽が沈んでいくのを、呼び戻すことはできない、ということが多い。頑張って西側にある建物を全部壊して、更地にすれば、多少は太陽が沈んでいく時に、夕日を見ている時間が延びるのかもしれないけれど、という話である。あとは、どこをその「区切り」の時間にするか、ってことになる。

 

死亡判定をしたところで、堰を切ったように泣き出すご家族もいらっしゃった。「区切り」を宣言した身としては、そんなにくっきりとした境界線ではないんだけれどなあ…って思うこともけっこうあるのだけれど、やっぱり大きな違いになるのだろう。

 

わたしの祖父は、わたしが生まれる前に硬膜下血腫をやらかして、半身不随、何を喋っているのか、よく聞き取れないような状態での介護が続いていた。祖母や、伯母が、祖父の移動を介助していたのを子供心に見ていたのだけれど、何をしていても、「うー」と唸りながら動いていたし、声はかすれていたし、あまり親しくできた記憶がない。もともとはとても強かった将棋も、だんだん弱くなって、わたしのへっぽこ将棋と良い勝負、になったころには、「おい、一局やろう」って声をかけてもらったことがあった。

彼が亡くなったのは、そこから、まだずいぶんと時が経ってから、だった。長いこと会っていなかった、祖父の葬儀で、喪われてしまっていたものに泣いたことを、覚えている。

と、嘆いてみても、脳出血以前をそもそも知らないわたしからすると、それは生前にすでに喪われていた、とも言える。惜しんではみたものの、こればっかりはどうしようもない。

 

そういえば、師匠と仰いでいた方が、この春、鬼籍に入られたのだ、と、お盆の直前に知ったところだった。前の年には、お電話での話が心許なくなっておられて、施設に入られた、ということだったので、まあ無理もない…と思ったけれど、やっぱり気持ちの中では、喪失感があって、とはいえ、同時に、むしろ師匠との距離が「近く」なったような気もしているので、これはとても不思議な感じがある。

 

自分の年齢も上がってきたし、有名人の訃報に接することも増えたような気がする。両親はありがたいことにまだ健在だが、伯母や伯父がそろそろ幽明境を異にしはじめているので、いつお呼びがかかるかわからないようになってきた。年齢の順でいってくれれば、まだありがたいと言わねばならないし、まだ今のところ、ありがたいことに、年齢順…に近い形ではある。

 

とはいえ、ケガレというけれど、通夜・告別式に参加すると、本当にくたびれる。やっぱりなにか、一緒に持って行かれて「気が枯れる」のかもしれない。

だんだん、合理化が進むと、病院からそのまま焼き場に直行、なんて話になりかねないけれど、故人を偲ぶ時間と、そこに集まる人がまだ残っていることは、本当にありがたいことだと思う。