産婦人科の話題っていうのは、もっぱら臍から下の話題に限られている。のだけれど、例外がある。そんな例外の話をしようか、と思う。乳房の話である。産婦人科医が乳房に関わるときというのは、産後の乳腺炎とか、そういう話になってくる。
乳腺炎にはいろいろな民間療法がある。一時期、乳房マッサージといえば「桶谷式」ってのがあって、あれはどちらかというと、乳汁の分泌を良くする方向性だったらしい。桶谷式は、食べ物について、かなり厳しく、穀物菜食、的な形に指導しておられたらしい。マッサージは良いのだけれど、あの生活指導がつらくて、という、産褥のお母さんもいらっしゃったと聞いている。
一時期は乳腺炎にキャベツを載せるのが話題になった。どうしてキャベツなのさ…って思うのだけれど、まああおい野菜を載せておくと、それなりに熱を冷ましてくれるらしい。
もちろん、いちばん良いのは、乳腺のうっ滞をなくすことで、だいたいは出口が詰まっている、というのが問題になる。そして、うっ滞が長引くと、まれに感染を引き起こす。
母乳での育児が絶対に良い、というわけではない時代になってきているのは承知の上で、それでも母乳が出て、それをあげられる状況が続くなら、母乳で育ててほしい、と思う…のはわたしのエゴなのかもしれないけれど、感染してしまうと、どうしても抗菌薬を使う、ということになるし、抗菌薬を使っている間は授乳を控えてほしい、って話になりがちである。
ほとんどの薬が妊娠中と授乳中には「安全性が確立していない」という理由の上で、添付文書上は「治療上の有益性が危険性を上回ると判断される場合にのみ投与すること」あるいは、「治療上の有益性及び母乳栄養の有益性を考慮し、授乳の継続又は中止を検討すること」という形で記載してある。
総括して「有益性投与」と私たちは呼んでいるのだけれど、まあ、胎児や新生児を巻き込んだ「人体実験」をそんなに繰り返すわけにはいかない部分が多いので、どうしても知見に乏しいと、そういう書き方をする、あるいは乳汁に分泌されることがハッキリしている場合には「授乳しないことが望ましい」というような話になってくる。
乳汁のうっ滞、っていうのは、だいたいは、出口が狭い乳腺が、それにもかかわらず、母乳を分泌する、ということで発生する。そして、母乳がサラサラしているならまあそれでも出てくるのだけれど、どろっとしていると詰まりやすくなる。詰まった場所が一カ所なら、それ以外の部分は消費されるわけで、脳からの指令は「じゃあ、もっと分泌増やせ」になるわけだから、詰まっているところは大変な話になる。
乳汁のうっ滞は、だから、うまいこと詰まった乳管を開通させる、という解決方法がひとつ、なのだけれど、もうひとつ方法がある。それは授乳を諦めてしまうことだ。
なにしろ、授乳しているから乳汁のうっ滞のトラブルが発生する。そして、感染を起こしたりする。
しかも、治療中は、授乳について、いろいろややこしいことを考えなければいけない。赤ちゃんにも影響があるかもしれない…なんていうことになると、そりゃ授乳をやめてしまえば「すっきり」する。トラブルも発生しなくなるし。
それで良いのか?と、母になることを援助している医療者としては思い悩む。思い悩むのだけれど、やっぱり決定は本人にあるわけで、本人の決定を尊重したいと思う。力足らずで、そのお母さんの乳房にトラブルを引き起こしてしまった、というのがわたしたちの「失点」ということになる。
なお。
完全母乳で育児をするときには、ある程度の日光浴で、子どもを紫外線に当ててあげてほしい。最近、紫外線を避けることが増えてきた結果として、完全母乳の乳幼児に、くる病が認められるようになってきている。もともとくる病は低栄養の状態に発生するビタミンD欠乏で、骨の形成不全が起こる病気である。古い病気だったのだけれど、ここにきて、紫外線によるビタミンDの活性化が不足する、という形で、再興してきているらしい。
産後の乳腺のケア、というのは、一般的には、助産師の仕事になっている。いわゆるおっぱいマッサージ、である。乳汁のうっ滞を解消するのがひとつの目的、もうひとつは、分泌を亢進させること…だったのだろうと思う。
民間療法的には乳汁分泌の亢進に、「鯉こく」が良い、ってことになっている。たぶんそれなりにタンパク質が確保されるものが良かったのだろう。「餅」って話もあった。もともと低栄養だった時代には、それなりにカロリーを補うことが必要、という智恵だったのだろうと思う。
最近の母乳育児についてのケア方法では、ラッチング、とかラッチオンとか、っていう話を優先しているらしい。つまり、赤ちゃんがきっちり吸い付くことが大事、ってこと。なんなら、今まで食事がどうとか(脂っ気が多い食事をすると、乳汁が濃くなるので、乳腺が詰まりやすくなるらしい)って言ってた人が、きっちりラッチングを指導したら、食事指導なんか一切なしで、乳房トラブルが激減した、っていう話をどこだかで書いていた。うーん。それはそれですごい。
良くなる理由っていうのは、なんだか、いっぱいある。
授乳の姿勢とか、母子の物理的な距離とか位置関係とかが変わっただけで、乳房のトラブルが激減する、なんてことだってあるし、その部分に焦点をあてていなくても、質素な食事が続いていたら、乳房のトラブルにはならない、というのもある種の事実なんだろうと思う。
一方で、どうしても、授乳がうまくいかない、という話もあるらしい。
三代、人工乳で育った、となると、授乳についての母や祖母からの伝承が途絶えてしまっている、という人があった。どこまで本当の話かわからないのだけれど、授乳してもらう…というのは、授乳する、という経験に繋がっているらしい。
そういえば、学生時代に京大の教授で「関係発達論」という講義を持っている先生がいらっしゃった。鯨岡先生とおっしゃったか。「舞鶴の岸壁で、娘の手を握って立ったときに、わたしは、娘の手をとって立つ父でありつつ、同時に、母に手をとってもらって立つ息子であった」みたいなことを書いておられた。若いときにはその意味がぜんぜんわからなかったけれど、そういう「育てた」親の経験を、「育ててもらった」子どもはどこかに受け止めている、ということがあるのかもしれない。
乳腺が…って話になると、だいたいはその乳腺が載っている場所の肋骨とか、その周囲の肩甲骨の可動性が取り沙汰されることになるらしい。
そして、肩甲骨の動きの不全は、後頭骨とか、あるいは骨盤とかの不調に連動している、というのだから、人の身体は不思議なもので…。
やっぱりどこからどこまでも繋がっているのだろうか。
わたし自身は性別が男性なので、授乳をする、という経験はなかったし、乳房のケアに入ることもあまりなかった(まれに、助産師が不在の場所で乳汁のうっ滞を解消するのに、乳房マッサージをしたことは、片手に数えるくらいは、ある)。
わたしの師匠は、そういえば、からだをほぐしたら、乳癌も小さくなっていく、ということで、せっせとほぐしていた、らしい。「こんなに小さくなった」って話をされていた。本当に乳癌だったのか、が怪しいのではないか、とこっそりわたしは考えているのだけれど、どこぞで乳癌だ、と診断されていたらしいから、時と場合によっては、そういうマッサージなどで緊張をほぐしていくことが乳腺にはたらきかける、ということもあるのかもしれない。