#42 いわゆる「あやしい」話について

nishi01

ほら。漢方やってたら「気」って話をけっこうするんですけれど、あれって西洋医学とか科学の枠組みでは「存在が証明されていない」ってことになってるじゃないですか。

気なんてものは無いんだ、っていうひとたちもけっこういらっしゃる。いや、あるんだと思いますけれど、うまいことそれを見るとか、共有するとか、ってことがしづらいでしょ。

客観性、ってことを言うためには、やっぱり「共有できる感覚」に載せる必要があって、そういう意味では「見える」っていう、視覚に載せられるものは、共有しやすい。紙の上とかだったら指さすこともできるし、「掌を指すように」って言うけれど、あれも手のひらの中を指で示す、っていう動作で、やっぱり視覚に対する情報と、その共有なのよねえ。

レントゲン、っていうのが、昔はシャーカステン、っていう、蛍光灯の塊みたいなところにフィルムをひっかけて読影していたんだけれど、今はそれ用のディスプレイで読んでいる。どちらにしても、指で示すことができて、ほら、ここにヒビが入っている、とか、あるいはここの部分が腫れているとか、って、そういう画像の強みってのが、あるよねえ。

それに比べると聴診の時に雑音があります、っていうのは、けっこう共有が難しい。一生懸命心音図とかって図像にしよう、って話はあったんだけれど。最近は心エコーするともっと詳細に心臓の状況が評価できるから、心エコーっていう画像検査に頼ることが増えた。

肩こり、ってのも、画像で示すことができるようになれば、ひょっとすると、もうちょっと話がしやすくなるのかもしれないけれど、うーん。難しいよねえ。

触覚も、人に伝達するのが、視覚に比べたら難しい。嗅覚とか味覚よりは、まだ理性的な話ができるらしいし、だから触覚で言語の伝達って、点字なんかでは可能だけれど。

で。そういう「共有しづらいもの」って、けっこう、無茶を言ってしまえたりするんですよ。共有しづらいから、理論がある程度立つと、否定もできなくなってしまうので。

一時期あったのが、「あなたの深層心理は…」って理屈。「そんなことありません!」って本人が訴えても「それはあなたの表面的な心理で、あなたも知らない、あなた自身の深層心理では…」みたいな話になると、これは不可知だからねえ。その不可知の部分を強引に主張されても、否定できないのよ。

科学的な仮説、っていうのの特徴とは、って話を、そういえば、科学哲学の先生がおっしゃっていた。反証可能性、ってこと。なんらかの主張をする、その主張は、場合によっては成立しないかもしれない、っていうことをきっちり反証できるような形になっている、っていうことが、科学としては大事、って話だったと思う。

あなたの気の巡りが、とかあなたのオーラが、とかっていうのは、反証できないじゃんねえ。へえ。そうなの、としか言いようがない。「いや、そうはおっしゃるけれど、その話だと、こうこうだけれど、私の実感はそうじゃない」みたいな話ができるか?っていうと、難しい。

こういう反証できない話を「根拠」にして、何かをしようとしている場合、それは、やっぱり、「あやしい」ってことになるんだろうと思う。

「この壺を家に置いておいたら、家の悪い瘴気を吸い取ってくれます」って話は、さ。やっぱり反証しづらいんだよ。「だから300万円でこの壺を買いなさい」って話になるんだったら、それは、やっぱり医療では、ないよねえ。ってことになる。

気の話だって、オーラの話だって、そういうものは、あるんだろうと思う。

そうは言っても、ほら、やっぱり気の調整したいじゃない。ねえ。ってことになったときに、さ。どうするか、って話で言うなら、「重心をそちらには持っていかない」ってことになるんだろうと思う。

「余計なことをするけど」とか「変なこと聞くけど」あるいは「おまじないをしてみるけれど」っていう前置きをして、そういう話を持ち込むことにする。つまり、そこは「反証可能性があまり無い部分なので、それが的中していてもぜんぜん見当違いでも、どちらであってもかまわないような話」くらいにしておく必要があるんだろうと思う。というか、私はそういう立場に立っている。

こういう「あやしい」話の世界…というか、不思議な力を持っておられるかたは、それが見えたり聞こえたりするわけで、そういう方の中には、本当に真面目に仕事している方が時々いらっしゃる。その方の人生の巡り合わせとして、不思議な力を発揮されたお仕事っていうのは、それは、仕方ないことだし、本当にお仕事お疲れさまです、って思う。

一方で、多少はそういう不思議な力に類するものをお持ちの方であっても、こういう「あやしい」話を持ち出すことで、自分がお金儲けをしよう、とか、あるいはそれに類するような俗世的な欲を満たすようなことに使っておられる場合。本当にこれも反証できない話なんだけれど、その人のいわゆる「徳」がどんどん目減りする。もう本当にこういうものは、どんどん減っていく。

なので、たとえ最初は「ひとに見えないもの」が見えていたりしたとしても、どんどん、本来見えているものじゃないものに変質していく。例えば、最初は神様的な存在からのメッセージを受け取っていた人が、徳が足りなくなってくると、神様じゃなくて、狐狸の化け物みたいな存在からの情報、みたいな話に変質していくことがけっこうある。

…と私は思っている。なので、そういう不思議な力を実際にお持ちの方は、くれぐれも、ご自身の欲に振り回されて、その能力を無駄に使わない方が良いと思っています。

 

それと。

こういう話、って、いつ、誰とどこででも、同じ話ができるわけ、じゃない。

科学ってのは、条件が揃えば、誰が観察しても同じ結果になる、っていうことをすごく一生懸命集めてきて、積み重ねてきているけれど、この「あやしい」系の話は、本当に一回きりだったり、その人向け、だったりする。

つまり、その「あやしい」系の話ってのは、話に賞味期限があって、これがけっこう短い。なんなら、次の人に同じ話が伝わったときには、すでに期限切れだったりする。その時、その場所で、その人との間で、のみ「ただしい」が成立する、みたいなこと、って、こういう「あやしい」系の話ではしばしば、ある。もちろん、そこでだって「最初っから正しくない」っていう話だってあるから注意が必要なんだけれど。

だから、ある意味で、受け取る人を選びながら、発信する、っていうことになるわけで。

不特定多数に届くメディアで「あやしい話」ってのをしている段階で、それはちょっと勘違いしている人、ってことに、たぶん、なっている。

勘違いっていうのは、「これが万人に通じる話だ」という勘違いのこともあるし、「自分はよくわかっている」っていう勘違いの時もあるんだろうと思う。勘違いしている人が、そのまま上手くいっている間は良いんだけれど、やっぱりあやしい系の話ってのは、それなりに受け手の許容量の問題もあるから、ちゃんとその辺も見極めてから話を持ち出す必要があるのに、それを考えないで全部押しつける、みたいなことになっているなら、やっぱりトラブルの原因になりかねない。

君子危うきに近寄らずって話をするなら、やっぱり、あやしい話を大きな声で、誰にでもしている人からは、遠ざかるのが、安全なんだろうと思う。まともな方だったら、そんなに大きな声でそのことを喧伝しないはずですから。

え?にしむらセンセ、あやしい話、こんなにおおっぴらに書いてるじゃんって?

そうなんですよ。だからあやしい人ですからねえ。遠ざかっているのが安全ですよ(笑)。