医者が医療の中でどんなことを考えているのか、っていう話のついでに、EBM、ってのの話をしてみようか、って思う。
EBM、エビデンス・ベースト・メディスン。エビデンスに基づいた医療、ってのが日本語訳になるんだけれど、エビデンスって一体なによ?ってことになる。エビデンスって?
辞書によると「証拠」とか「証言」みたいな意味が本来のものらしい。EBMの文脈では「(科学的)根拠」っていう風に翻訳することが多いのかな。http://spell.umin.jp/EBM.htm
EBMが提唱されてからかれこれ30年以上経過しているらしいけれど、たとえば、コクラン計画ってのがその中心的な部分にある。https://www.lifescience.co.jp/yk/jpt_online/cochrane/index_cochrane1.html このコクラン氏は、三砂ちづる(疫学者)がどこかで書いておられたのだけれど、第2次大戦中の収容所の虜囚が、十分な栄養も、十分な健康管理の供給体制もなかったのに、結構生き延びた、っていう事実を見て、「ひょっとして、今、普通にやっている医療って、過剰なんじゃねえの?」って思ったところから、ひとつひとつの医療行為が「本当に必要でかつ有効なものなのかどうか」っていう検証をしようと思った、らしい。
全ての人類を対象に、自分ひとりでその検証ってどう考えても無理だよねえ、って思うのだけれど、コクラン氏もやっぱり、全部自分でやってしまうつもりは無かった。コクランライブラリって呼ぶような、「論文の情報を集めて、それらを評価、重み付けをして、まとめを提供する」という形のシステムを作り上げた。
これがいわゆる「エビデンス」って呼ばれる対象になってくる。
もちろん、エビデンスっていうのは、これだけじゃなくて、目の前でその人の調子が良くなった、っていう実績だってエビデンスなわけなんだけれど、さ。臨床の報告なんかではしばしば「3た理論」って揶揄されることがある。とある症状の患者になんらかの働きかけをし「た」ところ、その後その患者の症状が改善し「た」。だから、その働きかけが効い「た」と考えられる、っていう論調。
でもさ。なにもしなくたって、良くなったかもしれないでしょ。だから、「なにもしなかった」ひとと、「その働きかけをした」ひとと、で、どちらがより症状が改善したのか、っていうのを比べることになる。本当は同じ人で、同時に別々の方法を比べる、ってことをやりたいのだけれど、それはできないから、割と似たような状況と、症状の人を集めてきて、そのうちの一方は「介入する」もう一方は「対照として観察する」くらいの調査になることが多い。
いやさ。そうは言っても、治療うけたい、ってのが人情じゃない。「あなたはこの治療法の研究において、「治療を受けない場合どうなるか」の方に決まりました」って。結構なストレスになるよ、ねえ。
だから、そういう「新しい介入を希望するか、しないか」みたいなところで振り分けると、本当に新しい治療を希望する、って方に殺到したりする。『がん4000年の歴史』https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013241 の中には、抗癌剤の比較臨床試験…という制度がまだできる前に、新しい試みに殺到したというエピソードが紹介されている。
抗癌剤というのは、まあ今でもわりとそういう部分が多いのだけれど、癌細胞「だけ」を狙って攻撃する、っていうことが、微妙に難しい。銀の弾丸とか魔法の弾丸、っていう風に言われるのだけれど、そういう「病変だけを狙って効果が発揮される」薬を、本当に癌治療を研究している方々は、一生懸命探しつづけている。
現状、まだまだ実現には至っていないので、少し前の時代はもっとそうだった。抗癌剤の効果が発揮される場所は「分裂増殖をしている細胞」ってくらいだと、まだ実現が可能で、ただし、癌細胞だけじゃなくて、ヒトの身体には日々分裂増殖している細胞がある。抗癌剤を使うと、その正常の部分も抗癌剤の影響でやられてしまう。(ただし、正常の細胞の方が、やられた後の回復が早い、ことが多くて、その差をつかって、癌をやっつけるのだ、と昔そんな風に治療の理論を聞いた)
一番問題になるのは、骨髄細胞で、これは赤血球や白血球、血小板を作る場所のこと。ここは日々分裂増殖をしている(白血球や血小板の寿命が短いため、ここの働きが悪くなると、いちばん最初に白血球が減ってくる。そのうち血小板や赤血球も減ってくるようになる)ので、抗癌剤の影響を受けやすい。抗癌剤の影響で白血球が減ると、今度は感染に対する対処をしづらくなって、ちょっとした菌にも感染されやすくなってくる(日和見感染なんて呼ばれたりする。だから白血病などの治療ではクリーンルームに入ってもらうことがあったりする)。
だから、癌に対してはすごく強い治療をして、さっさと癌細胞を殲滅したい、って思うのだけれど、その余波で患者さん本人が被害を被らないようにしなければならない、っていうところの加減が難しい。のだけれど、問題が骨髄の細胞だったら、ほら、骨髄移植ってあるでしょ。あれやったらよいのよ、って思いついたひとが居た。
白血病の治療なんかで骨髄移植ってのをやるときには、白血球の血液型をかなり厳しく揃えないといけない、ってことになっていて、それは家族以外だと、数百人から数万人に一人、くらいの適合率って言われている。のだけれど。自分から自分に移植するなら、ぜんぜん平気でしょ。いったん、抗癌剤を使う前に、自分の骨髄細胞をとっておいて、抗癌剤を使ったあとに戻したら良いのよ。って。自家移植だから血液型はマッチしているし。
ってことで、それでも副作用はひどかったんだろうけれど、骨髄の自家移植を組み合わせた、苛烈な抗癌剤治療、っていう治療方法が考案された。ら、本当にみんな、そっちに殺到したらしくって、ねえ。そうじゃない治療を受けた人たちとの比較が大変なほどだったらしいのよ。
ちなみに、新しい治療法に殺到した方々には大変残念なことに、そして、今、自家移植つきの抗癌剤治療がそんなに有名じゃないことを考えてみてもわかるかもしれないけれど、その後の生存率を比較した結果として、この苛烈な抗癌剤治療は、そうじゃないオーソドックスな抗癌剤治療を受けた人たちよりも、生存率が低かった、という驚くべき結果が出た。
この辺は理論と実態との乖離があったのかもしれないし、その他に影響したなんらかの要素があったのかもしれない。ひとまず、自家移植つき抗癌剤治療が一番良い、という評価ではなかったというのは、希望していた患者さんにも、治療していた医療者にもショッキングな事実だったとは思う。
同じような時期に、こういう統計を用いた疫学研究が進んだんだと思う。喫煙が発癌に及ぼす影響、みたいなのが、取り上げられた、ってことも書いてあるのだけれど、これも、当時は一大センセーションだったらしい。喫煙はたしかに癌の発症リスクを上昇させる、って言われても、実感できるほどの水準ではなかったらしいので。
(わたしも学生時代に、肝炎ウイルスの慢性的な感染が肝臓癌の原因だ、って教授が講義しているときにずいぶん噛みついた思い出がある。「ウイルス持っている人がみんな発癌しているわけじゃないでしょ!」って言ったんだけれど、教授はやっぱり困っていた。今から考えると、「統計的な解釈ができていない学生に、どうやって事実を呑み込ませることができるだろうか」っていう半ば絶望と諦めがあったのかもしれない、って思えるような表情をしていた)
タンスの角に足の小指をぶつけたら、痛い、ってのは、まあ、みんなわかるわけですよ。その因果関係も。蚊に刺されたらかゆい、とか、蜂に刺されると痛いとか。それは反応がわりと近いから。花粉…はどうなんだろうねえ。花粉症のひとたち、本当に花粉だろうか問題はあるよねえ。花粉は目に見えにくいから。あれは「どうやら花粉っぽいぞ」っていう言説の方が先行している気がするなあ。
コレラが昔流行したところで、疫学研究が役に立った、みたいな話が残っているし、そういう話とともに地図が示されるけれど、当時はコレラの原因は「瘴気」だとする説がわりと主力だったらしい。https://www.jstage.jst.go.jp/article/faruawpsj/50/6/50_558/_pdf
病原性微生物、っていう発想が生まれてくるまでは、もうちょっとかかる、というか。そういえば、戦争から帰ってきた傷病者の傷が感染して…みたいな話があった時代に、「それは医療施設に瘴気が溜まるからだ…なので、施設は時々建て替えるのが良い」みたいな発想が飛びだしていた、って話もあった。式年遷宮かよ。
今では、コレラは感染症で、汚染された水源なんかが、蔓延の原因になる、って理解をわたしたちはしているけれど、実際にはその理解は実感を伴ったもの、では、あまり、ない。やっぱり科学的な仮説ってのが先行しているところは大きいんじゃないか、って思う。もちろん、水の衛生が不十分なところに行ってきて、やっぱりコレラにかかりました、みたいな実体験があれば、今の言説が強化されるんだろうけれど(近年では、コレラによる死亡の原因はひどい下痢による脱水だとされていて、点滴を両手両足から入れて、大量に滴下していたら、下痢している状態でも見た目はほぼ普通で、下痢がおさまるまで我慢すればなんとか生還できるようになっている、らしい。まあ生還するまでにどれだけの点滴が必要か、って話にはなる)、できることなら、そんなつらい目には遭わないで済ませたい。
そういえば、ヘリコバクターピロリが胃潰瘍の原因だ、って主張していたオーストラリアの先生、https://www.nurshare.jp/article/detail/10429 自分で飲んで胃炎の発症を証明したよねえ。あれはあれで、なんとも身体を張った研究だったと思う。ノーベル賞の受賞者になったから、飲んだだけの甲斐はあったのかもしれない。あれは「3た」には該当しないんだろうか…って思うけれど、まあその辺はコッホの原則を参照して、ってことかしら。ねえ。
もちろん、抗癌剤治療を受けた方が皆亡くなった、というわけでも、ない。数少ないながらも癌の治療を終えて元気に暮らしている人がいる。そういうエピソード的な話を集めてきて、じゃあ同じ治療をしたら…?って考えるのは研究のいちばん最初にやることだとは思う。
癌については、1000人にひとりくらい、「自然退縮」する患者さんがいらっしゃる、らしい。ご祈祷に行ったとか、あやしげな治療を受けたとか、あるいは高価な壺を購入したとか、そういうこととの因果関係を考えなくもないのだけれど、癌治療をやっている先生からすると、標準治療がいちばん成績が良いってことらしいから、1000人にひとり、に、自分がなる!っていう形で狙うのは、あまり現実的ではないと思う。
で。エビデンスの話をしていたんだった。
この病態で、この治療をしたら、生存率(あるいは症状の改善率)は今までのこの治療に比べて、改善するだろうか?ってのを一生懸命考えて、新しい方が死亡率が上がることだってある、ってのを承知しつつ、研究をするし、研究に一縷の望みをかけて参加する、って形で、臨床比較試験みたいなものは行われている。そこである程度実績があれば、じゃあ、それを大規模にやってみましょう…ってことが進んで、そのうち標準治療をこれにしましょう…って形で採用される、ようになるものが多いはず。
いきなり話がすっ飛ぶのだけれど、武器軟膏って話を先日発見して、どひゃー!って驚いたことがあった。https://toyokeizai.net/articles/-/427861?page=3 この辺にその一部が載っているのだけれど、17世紀の話。戦場で傷を受けた軍人が、「通常の傷の治療をする」場合と、「傷をつけた武器に特殊な軟膏を塗る」場合とを比較したときに、後者の方が治癒成績が良かった、という比較試験の報告が出ている。当時はEBMなんて言葉は無かったけれど、わりと冷静に、学術的な観察をしていた人がいて、研究のデザインも大変優秀だった、の、だろう。
結論から言うと、何の事はない、当時の傷の治療が大変不潔なものであったから、創部に感染を引き起こしていて、傷の治癒が遷延したとか、病状が悪化したとか、そういう話らしい。武器軟膏が効いたというよりは、当時の普通の創傷処置があまりにもお粗末すぎて、だったら、なにもしない方が治癒が進むくらいだった、っていう。(日本でも宮本武蔵の伝記に、傷口に馬糞を塗り込んだ、ってエピソードが載っていて、子供心に「うわあ」って思った記憶がある。そういえばアレは大丈夫だったんだろうか…)
だから、比較対照試験をしているから、理屈がきっちり正しい、とも言いづらい現象ってのは起こることがあるわけで。なんでだろうねえ…?って思うのだけれど、人の身体っていうのは思いがけないことがしばしば起こる。
昔は心不全の人に、脈が減る薬なんてとんでもない、って言われてた。もっと心臓が頑張る薬を使うんだ、って。今は、使い始めに注意して、それでも脈がゆっくり、心臓が無理しない方が長持ちする、っていうのが「正しい知識」になってきている。
https://jams.med.or.jp/event/doc/122065.pdf
プラセボ効果、ってのがあって。なんにも有効成分が入っていない「偽薬」であっても、いろいろな理由をつけると、効果が発揮されたり、あるいは副作用が出現したり、することがある。https://president.jp/articles/-/84478
あるいは「癌の自然退縮」みたいなことだって時々はある。サイモントン療法ってのは、そういう「自然退縮」を引き起こすようなイメージを意識的に繰り返すことで、健康を取り戻そうとするような心理療法だったりする。https://simontonjapan.com/about/
こういうことが、「わりと誰にでも同じように起こる」なら、有効な治療って言えるのよねえ。ってことで、ある程度同じような人に、同じようなことをやって、結果が出るか、出ないか、ってのを調べて、論文にするわけですよ。
で、そうやって調べた論文ってのがあって、それを格付けするわけ。格付けはある程度決まっていて「エビデンスのピラミッド」って呼ばれているらしい。https://www.jstage.jst.go.jp/article/jspo/33/1/33_71/_pdf/-char/ja 一番格付けが高いのが「メタアナリシス」とか「系統的レビュー」って言って、他の論文なんかをいろいろ評価しながら比較して検討したもの。そこから順番に、「RCT(ランダム化比較試験)」、「非ランダム化比較試験」ってのがあって、「コホート研究」とか「ケースコントロール研究」なんてのが下の方になってくる。一番下の方に「症例報告」とか「専門家の意見や考え」ってのが出てくる。もちろん専門家がきっちり系統的なレビューをしていたら、一番上になるのよ?きっと。
これがEBMのうちの「エビデンス」の部分。ときどき「EBMはあるのか!」って中途半端な勉強をされた先生とかが叫ぶのだけれど、まあ、ちょっと待ってね。EBMってのは、こういうエビデンスがあるか、無いか、ってことを議論しつつ、それをどうやって目の前の患者さんに適応するか、っていうことを検討した上で、方針を決める、っていうところまで全部含んだ一連のプロセスのことを言うわけなのよ。
EBMのプロセスとしては、
1)目の前の患者さんの健康や症状についての問題を「定式化」する。
ってところから始まる。目の前の患者さん、いろいろな不調があったりする。でさ。そういう不調って、人によって違うわけ、訴え方も。症状も。それをある程度「エビデンス」としての論文で、誰かが結論だしてくれてるような構造に入れ込まないとならない。
たとえば「なんかここ1年くらいずーっと腰が痛くって。私身長が190cmあるんで、そもそも机と椅子がサイズ合わないんですよねえ…ずうっとかがんでいるんですよ。そうしないと頭ぶつけるし。薬局で買った湿布貼ってるんですけどぜんぜん良くならなくて、先生、これってどうにかなりませんか?」みたいな相談がそのまま論文になっているわけじゃないから、かなり抽象化しなきゃならない。ざっくり「慢性の腰痛を訴えている40代の男性に効果的な治療はなにか」くらいなら論文がありそうなんだと思うけれど。そのくらいは問題を抽出して、抽象化させないとならない。
2)定式化された問題についての答えになりそうな論文を探す。
今はグーグル先生とか、コクランライブラリとか充実してきたので、わりと一般的な問題は簡便に答えが得られることも増えてきた。まだ「肩こりにお祓いは有効か?」なんて論文は出版されてはいないと思うから、そういう質問はやめて欲しいけれど。
3)探して来た論文をエビデンスのピラミッドを参照しつつ、格付けする。
格付けするだけじゃなくて、ちゃんと「この論文の中身、ホントに役に立つんやろか」って思いながら検討する、ってこともあったりする。批判的に吟味、って書いてある。昔とある降圧薬が大規模臨床試験の対象になったことがある。まあ、そういう臨床試験やりたいときってさ、やっぱりわざわざお金かけて、薬の効果がありませんでした、って話を証明したいわけじゃないのよ。だからねえ。なるべく効果が出た、って形にしたいし、そういうデータを集めてくるのだけれど。関係の各所では「いいか、この薬使っているひとは、一日でも良いから寿命を延ばせ」って号令がかかってたりした、なんて噂話も聞いたことがある。結局その論文は、他の大学の先生が「データのばらつき具合が不自然なほどに「揃っている」のは捏造じゃないか」って指摘して、やっぱり捏造だった!って騒ぎになったことがある。なので、論文になっているから、って全部鵜呑みにしてもいけないらしい。この辺、とっても難しい。
4)で、そうやって得られた情報を、「総合的に判断」して、今の目の前の患者さんに使うかどうか、ってことを考える、って話になる。
5)で、それがきっちり効果があったかどうか、ってのを検証しつつ繰り返す、と。
この2と3の部分が結構「エビデンス」って呼ばれる部分なんだけれど、時々微妙に間違える先生がいらっしゃって「EBMに基づいた医療」なんて発言をみかけることもある。なんつうか、屋上屋を架すというか、頭痛が痛いというか。ニホンゴに入ってくるとそういう変化って結構あるよねえ。
臨床の話でいうと、1)の部分とか4)の部分がとっても大事になってくる。論文でたとえば「この薬を飲めば心筋梗塞の発症リスクが半減する」みたいな話があったとした場合に、じゃあ、薬を1つ増やしましょうか?っていうのは、また別の事情があって。いやそもそもリスク半減っていうけれど、この人、そんなに発症リスク高いの?みたいなことを考えると、「発症リスクが1000分の1から2000分の1になる」ってのが実際のところだった、なんてこともあったりする。そもそも1000分の1だったら、まあ良いか、って考えることだってあるし、逆に、1000分の1くらいなら、やっぱり下げておきたい、って考えることだって、ある。
エビデンスの部分が抽象化されている数字だ、って話をしたけれど、人はそれぞれ自分の人生を背景に抱えていて。もうちょっとそっちの個々人の物語に焦点をあてることも大事なんじゃないの?っていうことを言い始めた医者が、EBMの実践をしている人たちのなかから出てきた。で、彼女たちが出した本がナラティブベイストメディスンhttps://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/old/old_article/n2000dir/n2409dir/n2409_01.htm って本で、河合隼雄氏がどこかの講演で紹介されたのを受けて、翻訳出版された。(なんで妙に詳しいのか、っていうと、実はこの本、私もちょっとだけ翻訳に関わっているからだったりする)https://www.kongoshuppan.co.jp/book/b514386.html
この本の監訳者のひとり、斎藤清二先生は、その後ナラティブとエビデンスの話を延々考えるところにはまり込んでしまわれて、「ナラエビ」なんて省略しつつ、いくつかの書籍を出版されている。ただし、EBMとナラティブベイストメディスン(NBM)ってのは、喧嘩する概念ではなくて、どの部分を大事にしようか、っていう話でしかない。ナラティブって「ものがたり」的な翻訳が一番多いのだけれど、エビデンスっていう言葉と、それが作り出しているものも、つまりは医療者が積み上げたり紡ぎ出したりした「ものがたり」なわけで、患者さんの人生における「ものがたり」をどのくらい尊重しつつ、そこに医療者の「ものがたり」を適合させていくか、って話になれば、それはつまりEBMのプロセスの4)の部分の話を丁寧にやりましょうね、ってことにしかならないので。
で。問題になるのは、2)定式化された問題についての論文、って話。ちらっと書いたけれど、肩こりにお祓い、って論文は無い。目の前の患者さんの個別な事情について、じゃあ、個別具体的になにをどう選択したら良いのか、って、結構定式化するまでに捨象される事情が多かったりするし、そのとき捨象された部分が、患者さんのものがたりの中ではとっても大事、だったりすることも多い。緊急で手術しないと、って言ってるのに、患者さんは「田植えが終わるまで待ってくれ!」みたいなことだって、あったりするし。
あとは、論文やメタアナリシスの結果と、逆行するようなことを希望されている場合なんかも、悩むよねえ。「血圧高いまま薬は飲みたくない」とかさ。
で、あとは、エビデンス至上主義になるお医者さんも居たりするんだけれど、エビデンスがある、ってさ。つまりは誰か、先人が切り開いた場所なのよね。最先端には、エビデンス、無いんだよ。というか、今から作っていく、っていう場所なのよ。そういう時に「エビデンスあるのか!?」って話が出てくると、「これから作っていくんだよ!」って言いたくなったりする。どこまで言っても、科学っていうのは、「確からしい仮説」の積み重ねなんだ、ってこと。臨床もそういう仮説を積み重ねた形で進んでいるってことだから、その上で、今、目の前にいる患者さんとの間で何をするか、ってのを考えなきゃならないし、それを世界の各地で、最先端が毎日起こっているわけ。
そういう意味では臨床家って日々勉強だよねえ、ってことに、やっぱりなるよねえ。