#36 西洋医学と東洋医学、混ぜると危険

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鍼灸師です。学生時代、西洋医学系の教官からも、東洋医学系の教官からも、両者は「混ぜるな、危険!」と強調されてきました。初学者にとっては、まったく別の体系の理論を、用語が似ているからと、つなぎ合わせて使うというのは、短慮であり、無謀であるという意味だと理解していました。にしむら先生のお考えを聞かせていただけませんか。


混ぜるな危険!ってよく見ますよねえ。もともとは酸素系の漂白剤と、塩素系の漂白剤の混合で、塩素ガスが発生して、死亡事故があったところの注意喚起でしたが。いや、塩素ってさ。本当に脱色の効果、すごいんだよ。でさ。それだけすごい塩素だからさ、人の身体に入ってきたら、あちこちで反応おこして、そりゃ組織傷害がすごいことになるのよねえ。塩素系の漂白剤使っている方が、クエン酸系のサプリを咥えていたら、口の中で塩素が発生して、っていうインシデントもあったりするみたいなので、皆さんくれぐれもご注意くださいね。

ええと。

おたずねの「西洋医学」と「東洋医学」なんですけれど、わたし、実は、その辺のあたりからして、いったい何をもって東洋医学と呼んでいるの?ってところから躓いています。

たとえ話なんですけれど、ね?

フレンチのシェフが作ったら、卵かけご飯であってもそれは立派なフレンチだ、っていう話をどこかで読んだ気がするんですよ。で。日本の和食の板前さんが作ったら、じゃあ、どんな料理でも和食になるのか?って話になるじゃないですか。

で、なるんですかねえ?ってあたりが、すこぶるつきで疑問になってて、ですねえ。

和室ってありますよねえ?畳敷きのお部屋。

じゃあ、どこかのおうちで、床に畳を敷き詰めたら、そこは和室になる、ってことで良いですか?どんなお部屋でも?ってなりません?

あるいは、お抹茶って、茶道の時に使いますよねえ。茶道ってどこまで崩したら茶道じゃなくなるんでしょうかしら、って考えたことありません?ありませんか。うーん。じゃあ考えてみてください。冷たいグリーンティは、茶道にはならんでしょう?茶筅と、抹茶と、お湯があったらそれで茶道になりますか?和菓子が必要?和菓子の代わりにケーキだったら?

って、そういう思考実験を、私はずいぶんやって来ました。

だって、鍼灸は東洋医学だけれど、トリガーポイントは西洋医学?でしょ。筋膜トリガーポイントの理論で毫鍼 (ごうしん) うってる人たちは、西洋医学やっておられるの?東洋医学やっておられるの?ってことになる。

ただね、初学者の間は、それぞれ別の思想体系だからね、それを混ぜないように注意して、勉強しなきゃならんのですよ。

なんだろう?ええと、さ。ほら多言語で喋ろう、みたいな団体あるじゃないですか。で、それぞれの言語で、得意な表現ってのがあってさ。なかなか他の言葉に翻訳しづらいもの、ってあるんですよ。

https://www.sogensha.co.jp/special/honyaku/ 『翻訳できない世界のことば』

で、そういうニュアンスを伝えるのに、言語巧者同士になると、各国の単語が入り交じった形で会話する、らしいんですけれど。で、得意な人たちは、そういう環境を子どもたちに与えて、子どもたちもそれに順応する、らしいんですけれど。

いや。普通の初学者は、まずはそれぞれの言葉をある程度になるまではゴッチャにしないで使っていかなきゃならんじゃないですか。うっかりゴッチャにするとね、論理がすごくいい加減になるんですよ。で、都合の良いときだけ、あっちにいったりこっちにいったりする。それをやってると、壁にぶち当たったときに逃げることになるのよねえ。

もちろん、臨床の現場では「つかえるものは何でもつかったらいいじゃん」っていうサバイバルな世界だったりするので、その時は上手いこと使い分けたりしたら良いんだろうと思うのだけれど、それは基礎が安定しているからできることで、そういう無理を、基礎が固まる前にやってしまうと、たぶん、弱点があちこちにできることになる。

いったん、西洋医学なら西洋医学、東洋医学なら東洋医学の理屈をきっちり構築できる基礎を作らないまま混ぜてしまうと、いわゆる「多国籍料理」って言えば聞こえは良いけれど、どっちつかずのところから先に行けなくなるんだと思う。

とは言っても、意識的にか、気づかないままなのか、混ぜてしまっている人もあって、そういう人たちの話がどこかで迷い込んで、「これってあっちのあれ!」みたいな話になっているところもあるんだろうなあと思うのですよ。トリガーポイントなんて、結局、経穴の逆輸入でしょ(へんけん)。

臨床に出ると、自分の行動とその評価軸的な話になるから、今、どういう観点(西洋医学的な/東洋医学的な)で、どういう手法で、何をしたいと思っているのか、っていうのをハッキリさせて、その上で、それが上手いこといったのかどうか、っていう評価ができたら、それで良いようになるんだろうと思うのだけれど。

そういう、今自分がやっていることが何なのか、っていうのをきっちり俯瞰できるようにするためには、基礎として、西洋医学と東洋医学がごっちゃになっていない方が安定するよねえ。その方がネコかぶる時にも、きっちりとネコかぶれるようになるじゃない。

このエッセイをいくつか読んでくださっている方なんだろうと思うけれど、にしむらセンセ、西洋医学的な説明しているかと思ったら急に中医学理論を持ち出してきた、みたいな文章、結構あるでしょ。逆に言うと、そういう文章で大丈夫か?って心配してくださっているのかもしれないけれど。

西洋医学的な説明をする場所と、中医学的な説明をする場所っていうのが、やっぱりあってさ。中医学的な説明をする方が、わかりやすいってところもあるのよ。つわりとか、あるいは排卵期の機能性子宮出血とか。で、中医学の説明はさ。その理論から、生活への指導も地続きだったりするから。

なんだけれど、そういう「行ったり来たり」をするのは、ちゃんとした基礎がしっかりできて、人を診ることが安定してから、がお薦め。規矩、っていうんだけれど、それが西洋と東洋の医学のそれぞれでだいぶ違うから、うっかり両方を混ぜてしまうと、自分の中の規矩が定まらなくなるのよ。そういう意味で、ちゃんと基準が立ち上がって、しっかりできるまでは混ぜるの禁止、って話になるよねえ。

ある程度基準ができてしまえば、あっち側の見解を、こっち側の理屈で解釈する、なんてこともできるようになってくる(もちろん全部じゃないのだけれど)し、行ったり来たりしても、足下がぶれなくなるんだろうけれど。