#14 治療契約と課題の分離-2 + 公衆衛生について

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課題の分離、ってのは、本当に大事なポイントで、前回は治療契約、っていう文脈の中でそれを語ったわけだけれど、それは、いったん分離した課題を「共通の課題」っていう形にしようね、っていう形で共有することの約束、っていうものだった。

で。共通の課題、っていう形にするっていうのは、実は、とっても「おせっかい」なことで、その提案っていうのは、ある種、クライアントさんの尊厳をどこかで損なう、っていう危険性がある、ってことでもある。

それは、「あなたは、一人ではその課題を解決できないでしょ」っていう「上から目線」的な部分がある、っていうこと。そして、「今のあなたは『イケてない』のだから、私の考える『イケてる』状態に、変身しなさいよ!」みたいな、侵害性だってある、っていうこと。

だから、治療家っていうのは、すごい業が深い。

そこまで大口をたたいておいても、変化が引き起こせない、っていう半端モノなら、害はまだ少ないのかもしれない。ああ、治療家さんを名乗っておられるけれど、まだ未熟だったのね、くらいで、お節介なひとがいるなあ、ってことくらいで、済むのかもしれない。

うっかり「悪いところ」を治してしまうような技術を持ってしまっているひとが、その技術をふるった、ということになると、これが面倒くさいことになりそうだったりする。

え?良くなったら感謝されるんじゃないの?って思うよねえ。一時的にでも楽になれば。

たしかに、そういう面もあるし、感謝されることの方が多いんだろうと思うのだけれど、じつはこれ、すごく危ういの。

特に、そこに治療家の方に、「欲」が出てくると、つまり、このクライアントさんを、自分の好みに仕立て上げたい、っていう形になってくることがある。クライアントさんその人のあり方を、他人であるはずの治療家が、自分の「我欲」を押しつける形で歪めてしまうことになりかねない。これを、治療する側の持つ「操作願望」って形で指摘された先生もいらっしゃった。操作できる技を持ってしまった人たちの、業…ごう…みたいなものになってしまう。

つべこべ言ってないで、つらい、しんどい、治してほしい、ってやってきた人が楽になっているんだから良いんじゃないの?って、そう思う人もいるかもしれないけれど、人を自分の思ったように変化させる、自分の思い通りになるようにする、ってのは、多分その時は良いように思えたとしても、あとあと、悪い方に影響してくるんだろうと思う。少なくとも、治療家の人相が悪くなる、とか、運気が落ちる、とかってのはきっとあるんだろうと思う。それに、先日も書いたけれど、偸盗の戒にひっかかる。人様の苦しみを勝手に取り上げてはいけないのですよ。いや、仏教に帰依していないから、そこはセーフかもしれない?うーん。やっぱり来世が悪くなりそうなんじゃないかなあ。

それでね。

治療をしようか、っていう話は、やっぱり「おせっかい」だし、人の身体に働きかけて、変化を及ぼす、っていうことは、ある種の「暴行」とも言って良い行為なんですよ。だから、少なくともクライアントさんの了解が必要なんですよ。でも、クライアントさん、だいたいは追い詰められていますから、うっかり「なんでもしますから!」みたいなことを言い出したりしかねないわけで、そういう状況で了解を得た、って言ったって、それが免罪のしるしにはならない、っていうのも了解できる話だと思いませんか?

クライアントさんが思っていたのと、違う結果になった、なんていうのも、しばしばありますし(問題は吹っ飛んでいったけれど、それと一緒に今までの生活も全部吹っ飛んでいった、なんてのはやっぱり、あまり嬉しくない方法なわけですし)。まあ、心理療法での治癒、って、生きていくのが楽になること、っていうよりは、「しんどいことを我が事として引き受けつつ生きることができるような体力がつく」っていう方向に進みますから、そもそも思っていたのとは違う!ってのは割としばしばありそうですけれど。

だから、少なくとも、治療っていうのは、クライアントさんが、「なんとかしてほしい」っていう要望を出されたところからはじまる…いやまあ、そうじゃなくても、「あなたしんどいところある?」っていう話を持ち出して、「おせっかい」ながら、提案するっていうこともあるんだけれど、少なくとも「一緒に治療しましょうね」っていう同意が必要だってこと。これ、大事なことだと思っているんですよ。私は。

病院や診療所ではあまり、そういう話をわざわざ取り上げないんだけれど、それは一般的に診療所っていうところがどういうことをやる場所なのか、っていう了解があって、ここに来るっていうことは治療に同意します、っていうことだ、っていう前提が、まあ大きくはある、っていうことなんじゃないかな、って考えてます。それこそ、時々思ってたんと違う!って話があるから、あまりにも「最初に来院したときにまるごと全部同意したようなものだから!」ってな形で強引に進めるのは問題にしかならないけれど。

そういう形の受診・受療のモチベーションがないひと、つまり「不調をなんとかしたい」って一切思っていない人をどうするか、って話は、難しくて。そういう「本人は困っていない」場合には、なかなか課題を共有する、っていうプロセスにはいかないんですよ。

で、そういう人の首に紐つけて、引っ張ってきて、ほら、治療を受けなさい!っていうのは、本当に無理な話でさ。昔はどこかの病院の先生方が、閑散期になったら、橋のたもとで生活していたホームレスを捕まえてきて、入院させて…みたいな話を聞いたこともあったけれど、そういう形では無理があるばっかりで、きちんとした治療が始まらないことが多いんですよ。

というのが、いわゆる「臨床」での話。健康診断なんかも、その後の精査加療もあわせて、受診してね、ってお願いしていることになる。

ところで、医学・医療の中には「臨床」っていう1対1での物事(とくにその人の健康問題)を考える、っていう領域と、それから「公衆衛生」っていう、多数のひとたちの動きや健康とその維持をどう考えるか、っていう領域があるんですよ。公衆衛生が優先されるときは、個人の人権は、ある程度制限されうるんです。実務として。

たとえば「検疫」ってのがあって。英語ではQuarantine とかって言うんだけれど、これはもともと港に入ってきた船を40日間留め置く、という意味だった。その間、船に乗ってきた人たちは、移動の自由を剥奪されていることになる。なにか懸念されている病気があるとするなら、留め置きしている40日の間に発症して、キツい病気なら亡くなるから、その後は感染の心配がないよね、っていう状態を作るのだ、っていう智恵だった。

今はそんなに日数をおくこともなくなっているけれど、それでも危険な感染症を持ち込む可能性がある人たちは、観察・治療みたいなことをするために、数日、隔離される、みたいなことがある。コロナが世界に広がったときに全世界的にステイホーム!って言ったのも、ある種の検疫みたいなもので、そういう形で少しずつながら、人権を一部制限されることって、必要だったりする、っていうことなのよ。(コロナへの対応の全てが適切だったかどうか、っていう判断はおいておくことにする。当初から感染症がどのくらい「怖い」かがわからなかったのもあるし)一方で、明らかに人権に抵触する話になるから、隔離するとか、あるいは予防接種をするとか、しないとか、っていうのは、本当にいろいろ悩ましいことがある。

今の日本は、コロナを除くと、(風疹とか、麻疹とか、あるいは水痘とか)感染症があまり無くなってきていて、子どもが定期予防接種を受けなくても、うっかり感染症にかかる、っていうことは減ってきているから、予防接種を受けた人たちがそれなりに多ければ、自分だけ予防接種をしないでいても、感染することがない。これを「タダ乗り」って呼んだりすることもある。もちろん、世の中には、いろいろな体調の問題が理由で、予防接種を受けられないひとたちもいるから、ある程度のひとが「タダ乗り」できるような状況にしておくことは大事、っていう話もあって、そこまで含めて公衆衛生では考えている。

予防接種っていうのは、自分が感染しないように、っていうこともあるのだけれど、一方で、チフスのメアリーっていう現象が報告されている。こういうことも感染症の中では起こることがあって。https://www.toholab.co.jp/info/archive/15982/ 不顕性感染っていう、自分には症状がないけれど、でも感染症を蔓延させるリスクがあり、実際に蔓延させてしまっていた。インドでも宗教指導者がコロナ感染しつつも集会して云々、って話はあったから、そういう人が集まる中心にいて、病原体をまき散らす、っていうのは、公衆衛生的には困った行動ってことになる。スーパースプレッダーとかって呼ばれるよねえ。

こういう人の「移動を自由にしてもいい」人権を制限するとか、っていうことは、必要なんじゃないの、って素朴に考えたりできる、のかもしれない。

もちろん、以前も書いたように「過剰診療」とか「防衛的な診療」みたいな部分もあるから、その人権の制限が「やりすぎだった」っていうことだってあるんだろうと思う。この辺の「やりすぎじゃないか?」っていうのは、また難しい。

今のところ当たり前、って言われている対応が、実は「羹に懲りて膾を吹く」的な話で、そこまでおおごとにしなくても良いものだった、なんて話は、それなりに転がっているのかもしれない。でもさ。いろいろそういう用心しておいて、何事もなかった、の方がいいよね?って言われることが多いよねえ。やっぱり、つらいことが起こってからでは遅いから。

もう25年も前のことになるんだ、って話で少し盛り上がってたけれど、昔、お祭りの時に、綿菓子を持っていた子どもが転んで、割り箸を喉に突き刺して、亡くなった、という事故があった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8F%E6%9E%97%E5%A4%A7%E7%97%85%E9%99%A2%E5%89%B2%E3%82%8A%E3%81%B0%E3%81%97%E6%AD%BB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

これは本当に不幸な事故だったのだけれど、じゃあ、それから、「綿菓子を売るときに、割り箸を使用するのは禁止する」みたいな話になったり、はしていない。整形外科の先生は、スケボーとか、そういう遊具で遊んでいる子どもたちを見ると、本当に気が気じゃなくなるくらい心配になる、って書いてるけれど、だからって、それで全部が制限されて、遊べなくなっているわけでもない。

「そんなこと言うなら、もっと危ないのは年寄りの餅だ!」みたいな話もあるくらいだけれど、じゃあ、お年寄りに餅を食べさせるのは禁止しよう、っていう話にもならない。あ。脱線するけれど、餅が喉に詰まったときには酢を飲ませると良いんだ、って民間療法には書いてあった。幸か不幸か私は試してみるようなタイミングに出くわしてないので、真偽のほどはわからないんだけれど(掃除機ツッコんで吸い取ったみたいな話はわりとよく聞くけれど、まあ口に掃除機ツッコまれるのもなかなか大変な経験だと思う)。

じゃあ、何が良くて、何が良くないのか、みたいな話は、これも難しいよねえ。ワクチンって一言で言っても、いろんなワクチンがあるし。

ひとつひとつ、その人の状況によって、違う、って言ってしまえば簡単だけれど、つまり、毎回葛藤がある。そういう葛藤はいらない、全部お仕着せで良い、って思うことも1つの選択なのかもしれないけれど。

いわゆる野口整体の野口先生(野口晴哉氏の息子さんたち)は、一切の医療的な関与を拒絶します、っていうスタンスだったから、小学校の時に、学校医の先生と、予防接種をうつ、うたない、っていうので、論争をしていたらしい。それはそれで生き方としては大変。大本教の教祖さまの家系でも、種痘を受けるとか受けないとか大騒ぎして、結局形だけ、信者の中のお医者さんにやってもらって…みたいな話もあったっけ。

そういう、信仰と医療行為とがぶつかる場所も結構あって、わりと有名なのは、輸血を拒否する系の宗教団体のひとたち。輸血がどうしても必要になったときにどうするか、って悩ましい。

本当は、その宗教の中に、その人たち向けの医療施設を作ってしまえばわりと葛藤は減るんだろうけれど、なかなか、実際にはそういうのは難しいからねえ。

本人の信仰ならまだ良いけれど、両親がその信仰で、それにつきあわされている子ども、なんて話になると、それは信仰に殉じた、と解釈するのか、それとも信仰を隠れ蓑にした虐待だ、と考えるのか、ってことだって出てくる。

じゃあ、今の西洋医学の判断が全て間違いじゃないのか?っていうと、必ずしもそうじゃない、って思えるようなことも時々あったりするから、医学が正しいって言っていることをそのまま受け入れられない、っていう生き方が発生するわけで。大事なものが違う、とも言えるんだろうけれど。

あまり強い言葉を使って、公衆衛生の方針に従わない人を糾弾するのも、これまた良い方法じゃないんだろうなあ、と思うのだけれど、そのあたり、科学的に正しい、っていう主張とともに、難しい話がいっぱいあるんだと思う。