#13 治療契約と課題の分離-1

nishi01

治療契約、って話をちょっと書いてみる。

治療契約、って、医療ではあまり言わないんですよねえ。

治療…の話なのに?って思うでしょ。思わない?そうか。思わないか。じゃあ、どこで治療契約って話が話題になるか、はわかる?

わかる、って声も結構あったのかしらん。あまり引っ張っても仕方ないのでさっさと答えを書くけれど(前振りが長いんじゃ!)臨床心理の領域ね。いわゆるカウンセリングの時に、治療契約って話がわりと、よく出てくる。

これを初回の面接がはじまる前に契約しているのか?とか、契約書が存在するのか?とかっていうと、ちょっと違うんだろうな、って思うし、実際のところ、この「契約」ってのは、カウンセラーとクライアントの双方で、今のクライアントさんの状況認識をすりあわせて、じゃあ、カウンセラーさんが、どこまで、どんなことができると思うのか、みたいな話を、それなりに言葉に載せてやりとりすること…なんじゃないかな、って思ってる。(実際の「契約」を見たことは、そういえば、無かった)

私は学生時代に河合隼雄が昔教えていた、っていう臨床心理士の学部教育の授業に潜り込んだりとか、アドラー派の心理学の講義を聴きにいったりとか、その後、アドラー派の心理学を実践している先生にわりとじっくり教えていただいたりとか、そういう経験が重なったこともあって、また講義された周辺の本を読みあさったこともあって、わりと心理学の勉強をしていた。

河合隼雄氏の本も、そのお弟子さんの本もそれなりに読んだし、講義も聴いてきた。そんな中で、わりと治療契約って話が出てくる。これは医療の文脈よりも、きっちり契約って話を前に出してくるよねえ…ってところが興味深いな、と思って見ていた。

心理学っていうのは、悪用しようと思うと、わりと簡単に技術の部分だけで、人を操作することができるようになる。それは、とっても危険なことだから、専門家は、人を操作する、ということが無いように、って部分をずいぶん徹底的に指導されるみたい。

で。

アドラー派の心理学を日本に持ち込んだ最初は野田俊作っていう人なんだけれど、https://adler.or.jp/%e9%87%8e%e7%94%b0%e4%bf%8a%e4%bd%9c/ 彼は、親子関係のプログラムを、いちばん最初にはじめた。通常のカウンセリングは1対1でされることがわりと多いのだけれど、親子両方を相手にしたカウンセリングだったり、子どもの問題について、親とのカウンセリングをしたり、っていう形じゃなくて、(たぶんそういうこともやっていたんだろうけれど)親が参加して、親子関係を改善していくためのプログラム、っていうのをアドラー心理学に基づいて組み立てたんだと思う(もともと組み立ててあったものを輸入したのかもしれないけれど)。

その親子関係改善プログラムの、いちばん最初のあたりにあるテーマが「課題の分離」っていうんだよねえ。あるいは「これは、だれの、かだいですか?」って書いてあったりする。

親子の悩みごと相談だったりすると、しばしばあるのが「子どもが勉強しません」っていう、親御さんの相談。なんだけれど、これ、本当に親御さんの悩み、ってことにして良いの?ってところがそもそも問題になってくる。

で。「親御さん、その相談事、って、だれの課題なんだと思いますか?」って投げかけることになる。だって、どう考えても、勉強するかしないか、ってのは、子どもの問題であって、それを横で見ていてヤキモキするのは親の趣味みたいなものでしょ。

「子どもが忘れ物をするので困ってます」ってのも似たような話になる。だれが困ってるんでしょうか。ねえ。

こうやって、きっちり、課題を分離することを、まずやっておいて、それから、親とか、治療家とかってのは、多少「おせっかい」なので、それに手を差し出すわけです。「これはほんらい、あなたの課題なんだけれど、あなたが一人でそれを引き受けるのはちょっと大変というか、今見たところ、あまり上手くいっていないような気がするので、何らかの形で私が手伝うことはできないもんでしょうかねえ」っていう具合に。

そうやって、じゃあ、この部分を「共通の課題」ってことにしましょう、っていうところで二人の契約が成立する。

治療契約も、きっと、似たような話で、似たような形になるんだ、って、私は思っている。本当にそうなのか、いやいや、書式に従った契約書があるよ、とかっていうあたりは、じつは、よくは知らない。

で。もう一つ特徴的なことは、課題の分離するときにも、共通の課題にしていくときにも、アドラー心理学的なアプローチをすると、人間関係を「縦」じゃなくて「横」の関係で持って行く。つまり、上下の、指示命令する人、される人、じゃなくて、対等の「提案をする人」と、「その提案を検討する人」との関係になる。

課題の分離の話はいろいろな解釈ができるのだけれど、私は、アドラーって言う人が、個々人の「課題を解決していく」力に対して絶対的に信頼していたんだなあ、って、この話をするたびに深く、感じ入る。だって、相手が解決できない問題、相手に任せてたら、エラいことになったりするじゃないですか!っては、アドラーは絶対に言わないんじゃないかって。

課題を分離して、横の関係で、共通の課題にすることを提案する、っていうのは、もう一つ、他者に対する敬意の表明だと私は思っている。つまり、相手をけっして侮らないで、尊重しているからこそ、この課題をあなたが引き受けている、っていうことを認めるわけだし、この課題をあなたはきっと解決できるだろう、っていうことを認めているわけだから。

その上で、やっぱり絶対に「おせっかい」な一言ってことで、「お手伝いしましょうか」って提案しているのが、治療家のポジション、だったり、親のポジションだったりするのよ。

医療の中ではもう少し対象が即物的で、受診した段階で、この契約が仮に締結されている、って考えるんだったか、なんか、そういう話になっていたと思うのだけれど、でも、自分で解決できる物事っていうのがわりとありそうだよねえ、っていう部分について、提案できることもある…でしょう?(それがいわゆる「生活指導」ってことになるわけで)もちろん、提案が全て受け入れられて、指導した通りに患者さんが行動する、か、どうか、っていうのは、患者さんに委ねられている部分なわけで、さ。

でも、どこまでも医療者って「おせっかい」で、患者さんの課題に首を突っ込みがちだってこと。契約を書類で毎回、って話にはならないにしても、課題をきっちり分離すること、その後に共有するかどうか、を確認すること、って、とっても良いスタンスだと思う。

で。問題は、このことと、患者教育っていうことが、微妙にずれる、っていうところなんだよねえ。

アドラー派の心理学でも、課題の重要さを認識してもらうために、本人に結末を体験してもらう、っていうプログラムがある。まったく全ての結末を体験してもらう、ってわけにはいかないから(時々はそれ放置すると死ぬよ!ってことだってあるし、あるいは結果が出た時には時間が過ぎてしまっているってこともあるし)あとは論理的に結末を想像してもらう、とか、情報提供する、ってことになるんだろうなと思う。

で、この論理的な結末を、あまり脅かす形で使いたくないのよ。心理学をそれなりに学んで、他者への影響を知った身分としては。

ただし、脅かしたり、何かのインセンティブを使ったりする方が、健康教育としての成果はあがりそうなのよ。っていうあたりがとっても難しいことになるんだよなあ、って思う。

そんなこんなで、治療契約と、課題の分離ってのは、とっても大事だってこと。

そんな話をしばらくしていたときに、読んでいた仏教書に、「他人の課題を引き受ける、ってことは、その人に与えられたものを奪い取る、っていうことだ」って書いてあって、びっくりしたのよねえ。

せっかくなので、本分から引き写してみることにするね。

「我が分限の外(ほか)なる物をとり用いるを偸盗というなり」(『人となる道』)

因果によって定まっている自己の分限への十分な得心がないので、他人の分限を侵害することに罪を感じることがありません。その結果、他の分限を犯してしまう。これが偸盗なのです。(中略)

「親の病のある時、その子これに代わることもならず。子に痛みのある時、その親が分かち忍ぶこともならぬ。この処に不偸盗戒があらわるるじゃ」

(小金丸泰仙著『慈雲尊者の『十善法語』を読む』大法輪閣2020年)https://www.daihorin-kaku.com/book/b507262.html

 

そういえば、野田俊作氏も晩年は「心理学だけでは人はたすからないから」っておっしゃって、チベット仏教に帰依されたり、その高僧を日本に請来したりしていたんだったっけ。

まあ、宗教の話に踏み込むとまた長くなるので、課題の分離に戻るけれど、その人、そのひと、の、人生みたいなものがあって。それは、実は、そのひと自身が(いろいろ紆余曲折がありながらも)自分で立ち上げていられるわけで。そういう他者への信頼ってのがある、っていうのは、とても大事なことなんだと思う。

「放っておくとエラいことになる」っていう心配ももちろん大事なんだけれど、そういう中にも、まあ、彼なり彼女が、自分の生活を自分でなんとかしていくことって、できるよね?って思えるかどうか、って、援助職の人にはとっても大事なことなんだろうな、って思う。

「ちゃんとした個人である、って認識する」ことで、相手がちゃんとする、っていうこともあるだろうし。