いて座について、すこしわかったことがあるのだけれど、うまく言えないままその季節を通り過ぎてしまった。
前に『いて座の季節が苦手』、という文章を書いたが、今は、ここに書いたことは、やっぱり少し違っていたのかもしれないという気がしている。
いて座の季節が悪いのではない、現代が、いて座の季節と相性が悪いのではないか。
と、今は考えている。
うまく言えない。
思い出したのは、
「自由」という言葉には、「何物にも拘束されない」という意味があるけれど、太古は「僕はどこへでも行ける」という意味があったこと。
「大丈夫」という言葉には、「セーフティネットは存在する」という意味もあるけれど、原始的には「この先は続いている」という意味であったこと。
『僕が移動すると、僕はその分未来へ進む』
いて座にとって、時間と空間は、同じものを別の言い方をしているだけのものなんだと思う。
いて座の季節には、遠くのものがよく見える。
沈んでゆく夕日が綺麗に見える。
月が澄んで見える。
落ちてゆく枯れ葉も、踊って見える。
”僕はこの世界を、自由に動き回ることできる。
その事を祝福されている。
僕はそんな世界にいる。”
それは、とても気持ちがよくて清々しい実感なのだけれど、怖くて非情なものでもあるんだろう。ひとつ誤れば人を轢き殺してしまう、車の運転のように。
「君はどこへでも行ける」
いて座の季節はきっとそう言っていたんだ。
でもその声は、現代では、希望的には聞こえずらい。
社会も生活も、僕たちの身体も、その声に応えられるほど、柔軟で丈夫になっていないから。
現代のあらゆる悩みの殆どは、縄文時代の終焉とともに、稲作と定住の定着とともに、始まったような気がする。


