#46 医療事故と医療安全の話

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現代の医療の世界では、時々エラーが起こる。

そういうエラーのことを、ぜんぶひっくるめて「医療事故」と呼ぶことが多い。

原因はいろいろあるし、結果もさまざまなことが起こっている。医療事故とひとことで呼んでいる中には「いやそんなこと起こったら仕方ないでしょう」って思うものもあれば「もうちょっとどこかで誰かが気づかなかったのかねえ?」って思うようなものも、あったりする。

あからさまに医療関係者の人為的なミスがあった場合などは「医療過誤」っていう表現をすることもあったのだけれど、たぶん、そういう言い方が混ざると、これは事故なのか、過誤なのか、みたいな話がどんどんめんどくさくなる。だから責任がどこにあるとか、原因がどうだとか、っていうのは全部目をつぶって、「医療事故」っていう言葉でまとめてしまう方が、たぶん、問題が少ないのだろう、と思う。

多くの場合、事故が発生したとしても、それに気づいて、適切な対応をとることができる…なら、まあ、なんとかなる、ってことにしておきたい。ただし、医療はやっぱり人の生き死にに関わる仕事である点からすると、患者さんが亡くなる、という結果にたどり着くことも、時々、あったりする。これはとってもつらいことだけれど、完全にゼロにはならない。もちろん、関わっている人の誰もが、そんなこと、起こって欲しくないと思っているのだけれど。

けっこう有名な医療事故というか、医療現場で起こったミスとして有名になったのは、「患者さんの取り違え」ってのがあった。調べてみると、平成11(1999)年に、横浜市立大学の附属病院で、肺を手術する予定の患者さんと、心臓を手術する予定の患者さんが取り違えられ、そのまま手術を受けている。https://www.yokohama-cu.ac.jp/kaikaku/BK3/bk3.html これは当然、大騒ぎになった。手術した先生は気づかなかったのか?とか、本人に名前確認しなかったのか、とか、って話があるのだけれど、どうやら、なんだかバタバタ?しているところで、そのあたりを妙にすり抜けてしまったらしい。手術する先生、手術の内容と、見えている状態とが違う?とかって気づかないものなの?って思うのだけれど、取り違えられた患者さんお二人が、どちらもそれなりの年齢で、両方とも、手術中に明らかな変化が出ているもの、でもなかったらしいので、そういうくらいのこともあるか…って手術を済ませてしまったらしい。術後に集中治療室に移動して、回復を待つ、というところにいたって、集中治療室の担当医が「あれ?」っていうところで判明したらしい。

ちょうどその頃、私は医学部の学生で、だから、いろいろ、医療事故をどうやって防ぐことができるのか、とか、そういう話題が盛り上がるようになった時に、講義を聴いたり、あるいは、同級生がその事故にちょっと関わっていたり、みたいな話を噂したり、みたいなことがあった。医療安全、という領域の学問は、それなりにあったのかもしれないけれど、ちょうどこういう話題が積み重なってきたところあたりで、『To err is human』(ひとは間違いをおかすものである)っていうようなタイトルの報告(米国でだったかな?)が出て、本当に大騒ぎになったらしい。

医療事故がそれよりも前に無かったか?っていうと、そんなことはない。例えば手塚治虫の『ブラックジャック』には「ときには真珠のように」という作品があるけれど、https://www.akitashoten.co.jp/special/blackjack40/27 これはブラックジャックを助けた本間先生が、当時、患者であるブラックジャックの体内にメスを一本置き忘れた、ということが物語として描かれている。さすがにメスを忘れる、というのは、まあ本当に危険な話だし、そんなに無いとは思うのだけれど、手術の時に使ったガーゼが体内に置き忘れられる、ということは、ままあったらしい。

今、手術で使うガーゼには、それぞれ鉛線が一本ずつ入れてある。だから、置き忘れたガーゼがお腹の中にあったら、その鉛線がレントゲンにうつる、のだけれど、それは、こういう「置き忘れ」事案がいくつも発生してから以降の話であって、それ以前のガーゼは、本当に普通のガーゼを蒸気滅菌して使っていたはずだから、レントゲンを撮ってもわからない。

超音波なんかで見ると、充実した腫瘍、のようにも見えるので「ガーゼオーマ」なんて呼ばれていたりするけれど、ゆっくり(あるいは急激に)大きくなっていく腫瘍とは異なって、これはただの…とは言わないけれど異物だから、大きさは変わらないままでそこにあったりする。古い患者さんで、その経過観察を受けにきておられた方があったのを見せていただいたことを覚えている。ご本人には、ガーゼオーマとは説明していなかった、かもしれない。

リアル手術を見学しているときに、ガーゼが1枚足りません!っていう話に出くわしたこともある。なんだかにしむらセンセ、あちこちで事件に出会ってるなあ…。だいたい、ガーゼの枚数は、開腹手術の場合は、お腹を閉じ始める前に一度確認するのだけれど、その時は、急いでいたのか、お腹を全部閉じてしまってからの話で、見ていてちょっとドキドキした。結果としては、帝王切開の子宮の中にガーゼがあって、なので、産道を経由して回収することができた、というウルトラCみたいな話だった。

古い本を読んでいると「鼻の手術をするのに、右と左を取り違えて、術後に気づいたのだけれど、どうしようか…って思いながら患者さんのベッドサイドにシオシオと訪問したら『先生!おかげさまでスッキリしました!ありがとうございます!』って言われて…」って書いておられた先生がいらっしゃった。たしか副鼻腔炎だかで、鼻づまりの手術だったかと思うのだけれど、患側(病気のある側、ね)を間違えて手術して、どうしてそれで本人の自覚症状が改善するのか、っていうあたりは、まったくもって難しい。ただし、にんげん、プラセボ効果ってのがあって、やっぱり大変な処置とか手術みたいなものを受けると、そのつじつまをあわせたくなるらしいから、プラセボがすごくよく効いたのかもしれない。プラセボを狙って似たようなことをするのは、さすがに推奨できないけれど。

医療事故とその予防…つまり医療安全の話は、たまたま講義をされた先生が大変上手な講義をされたから、なのか、学生だったにしむら君の印象にはかなりきっちり残りまして。その後、研修医のころに医療安全の講習会が院内であったのだけれど、わりと熱心に参加しては、院内で起こった事故の共有だとか、再発防止の取り組み、みたいなことをふむふむ、と聞きかじったりはしていたのだった。

当時、私の働いていた病院でも医療事故関連で、報道されるような裁判がなされていたし、世間では、福島県立大野病院事件(帝王切開の時に胎盤が癒着していて剥離できずに、そのまま出血がとめられなくて産婦さんが亡くなった、ことについて、業務上過失致死の疑い、ということで、担当医が逮捕拘留された)というのがあって、これもずいぶん長いこと裁判をやっていたし、応援しよう、っていう話も流れてきた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E5%A4%A7%E9%87%8E%E7%97%85%E9%99%A2%E4%BA%8B%E4%BB%B6

そのちょっと前には、夏祭りの綿あめを食べつつ転倒した子どもが綿あめの割り箸を脳に突き刺す、という事故があり、「割り箸事件」なんて呼ばれているのだけれど、これも担当した先生が民事と刑事と両方で訴えられていたりする。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8F%E6%9E%97%E5%A4%A7%E7%97%85%E9%99%A2%E5%89%B2%E3%82%8A%E3%81%B0%E3%81%97%E6%AD%BB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

こういう形で、医療に関係する領域で裁判がすごく増えたり、あるいは報道されたり、ということが一時期すごく増えた。

乳腺外科医が術後の診察をするときにわいせつ行為をされた、と訴えられて、刑事訴訟になった事件もあった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%8E%9F%E7%97%85%E9%99%A2#:~:text=0.2%E4%BA%BA-,%E4%B9%B3%E8%85%BA%E5%A4%96%E7%A7%91%E5%8C%BB%E4%BA%8B%E4%BB%B6,%E7%BD%AA%E3%81%A7%E8%B5%B7%E8%A8%B4%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82

こういう裁判が話題になり、医者の責任を問う声が大きくなってきた時期があった。ある意味、医者というのは、そうやって「叩いてもかまわない」対象とされてしまったのだろう。裁判でも、医者が悪い、とする判決がいくつか出ていたのだけれど、そういうことが報道されるほどに、医療現場からは手を引くひとが増えることになる。https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784022501837 『医療崩壊「立ち去り型サボタージュ」とは何か』小松秀樹、朝日新聞出版(2006年)なんていうのが出版されるのもこういう時代が背景にあったのだろうと思う。

そして、2000年代初頭に医者を叩いていた報道や裁判も、数年のうちに、論調が変わってきた、というのが、現状だろうと思う。のだけれど、やっぱりまだまだ医者は叩いてもかまわない、と感じている人もそれなりに居たりする様子で、SNSなんかでは、割と批判が集まったりすることもある。

SNSの話で言うと、COVID-19のパンデミックの前後は、本当にいろいろな情報が医師からも発信されて、で、そのやりとりがやっぱり問題があるものも多かった、っていうことになっている。専門家と、いわゆる素人さんとの間の情報量が違うとか、みているものが違う、とかっていうことがあったのだろうと思うけれど、この辺もいつも難しいことになっている。

さて。医療の現場で重大な事故が1件あるとすると、っていう「動いているゴキブリを1匹見たら…」みたいな話があって。だいたい30件くらいは、まあそんなに問題にならないけれど、実際の事故があって、そのおよそ10倍(300件)くらいは「ヒヤッとした」とか、「ハッとした」みたいな事故にはならなかったけれど、という事案(インシデントと呼ぶ)がある、っていう計算をした人がいる。

医療安全を推進するためには、重大事故の反省も大事だけれど、それよりも、軽微とされている、インシデントをしっかり集めて分析・対策を立てることが必要、ってことになっている。なので、多くの病院が、インシデントレポート、とか「ヒヤリハット報告」と呼ぶ形で、こういう報告を院内で集めるようにしている。これを書くと、病院によっては、取り調べ(笑)に呼ばれて、じゃあどうやったら防ぐことができるのか?みたいな議論に巻き込まれることになったりする。本当はこういうのを属人化したらいけないわけで、「ひとは誰でも間違える」っていうのを前提にして、解決策も「気をつける」ではなくて、間違いが発生しないような仕組みづくりが大事、っていうことになっている。

で、そのためには、例えば、一人でやっていた確認を、ふたりですることにしよう、みたいな話になってくる。ダブルチェックっていうんだけれど。

ダブルチェックでも、時々、見落とされるエラーがある、ってなったら、じゃあ、二人でやってたのを三人で確認した方が良いのか?って話もわりと真面目に議論されたんだけれど、実は三人以上で確認する、っていう作業になると、わりとみんなが「私ひとりくらい、不真面目なチェックでも良いよね」って油断するらしく、二人くらいがちょうど良いらしい。

とはいえ、今まで一人でやっていたことを、もうひとりの手を借りたり、目を借りたりすることになるわけで、手間数は増えることになる。業務の量としては増えるのよねえ。

そして、毎月のように、インシデントレポートってのは、報告されるわけで。インシデントレポートの報告件数っていうのも、医療安全が実施されているかどうか、のひとつの指標になったりしている。「今月も、看護師からのレポートは多いのですが、医師からのレポートが少ないのが課題になっています…」みたいな案内をもらったこともあった。当事者でなくても書いて良いということになっているので、誰が書いても良いはずなんだけれどねえ。

書式がけっこう厳しくて、関わったスタッフの勤務年数何年目、みたいなのも書かなきゃならなくて、関わっている看護師さんの勤務年数なんてしらんよ!って思ったのを思い出した。あれ、やっぱり看護師さんが書きやすい書式だわ。うん。

まあ、ともかく発生したインシデントの、どれはあまり心配しなくてよくて、どれが本当に重大な事故につながるものなのか、っていうのもけっこう考えていかなきゃならんのだけれど、まあいろいろ、あるわけで。

たとえば、入院中の患者さんの内服薬について、飲み忘れとか、手渡し間違い、とかっていうのが起こる。そういうのは、なるべくなら起こらないようにしたいところなんだけれど、やっぱりとっても煩雑だから、時々、起こる。で、そういう煩雑な操作を、だから、ダブルチェックしようぜ、っていうのが、対策としてたてられて、それで業務が増える、みたいなことが繰り返されていく…と、本当に箸の上げ下ろしをダブルチェックする、みたいな話になりかねない。そのダブルチェックで現場が疲弊したら、本当に必要な注意力が保てるのか?みたいな話にもなってくる。

…っていうことで、京都大学病院は、あるとき、衝撃的な発表をした。「(医療安全のために、といってやってきた)ダブルチェックを、(重要度判定して、さほど重要じゃない部分については)やめることにしました」って。たとえばこちらはその一部。https://safety.kuhp.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2021/05/news_iryoanzenjoho_100.pdf 病院っていうシステムが、いろいろ無理がでてきている、っていうことなのかもしれないけれど、同時に、あまり細かいことに目くじら立てるのも本末転倒になりかねないよね、って話でもある。

そういえば、インシデント…ないしアクシデント扱いされるものに、「転倒・転落」ってのが、ある。病院では電動のベッドが多いけれど、そこから離れた床に座り込んでいたり、横になっていたりすると、もう大騒ぎになる。で、これもまたヒヤリハットで報告されて、で、予防策を検討する、ってことに、なる。

なんだけれど、これも妙な話じゃないですか?ってやっぱり、言い始める方があった。だって、人生、生きてたら、ちょっとくらい転んだり、あるいはベッドからずり落ちたり、するでしょ?特に認知症があったりとか、身体が思ったように動かないとか、そういう事情があれば。お家で、床に座っているお年寄りは、じゃあ転倒転落したのか?って話になるのだけれど、これは難しいよねえ。本当に転倒して、足の骨を折ってしまうことだって、ある。

私の祖母も生前、バス停から、バスに乗るタイミングだかで転んで、大腿骨頸部骨折をやらかした。人工関節を入れたのだけれど、「これ、長持ちするから、おばあちゃんの寿命より持つんですって」みたいな話になっていた。たしかあの頃で90歳だったか、そのくらいだったような気がする。

インシデントレポートは「始末書」とは違う、というのが建前なのだけれど、病院によっては、始末書の取り扱いに近い形の取り調べがあったりして、個人の責任を追及されたりする、らしい。解決策に「これからは注意する」って書いて出してあるのもけっこう多い、って話を聞いたような気がする。それじゃ駄目なんだって、って思うのだけれど、だからって「今の職場は忙しすぎるから、人の配置を増やす」っていうのは、新人とか若手の看護師がそんな提案しても、誰も真に受けてくれはしないだろうし、予算もつかないだろうし、ねえ。難しいところだと思う。

なるべく、間違いを減らすために、じゃあ患者さん本人に自分で名乗ってもらうようにする、とかっていうのもあったりする。高齢になってくると、わかってなくても「うんうん」って肯定の返事だけかえしている方もあったりして、「うんうん」は聞こえてない、「わかった」は聞こえた、本当にわかったかどうかを判定する言葉はそもそも持ち合わせがない、なんていう冗談みたいな話が実際にそのとおりだったりする。

とはいえ、やっぱり医療には不確実性があって、思いがけないことが起こることがある。もちろん、そういうことが無ければ良いのだけれど、やっぱり、ある。医療安全を専門にしていた、当時の副院長が言っていたのだけれど、そういうときには、「間違った」ということをあっさり、はっきり、認めるのが大事、だ、ってことらしい。実際に記者会見であっさり「これとそれを取り違いまして」ってその副院長がさらっと喋っているのを見て、本当にびっくりした。そんなに軽く言うんだ…って。まあ起きてしまったことはどうしようもないから、ねえ。https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-11121000-Iyakushokuhinkyoku-Soumuka/0000084816.pdf

点滴と、胃瘻とか経鼻胃管のチューブと、をつなぎ間違って、点滴に「流動食」を注入した、なんていう事故もけっこうあったらしい。今はなので、使う器具の直径が違って、流用できないようになっている。こういう「接続できない」形にするのは、まあ安全の面では大事な話なのだけれど、在庫管理的な話で言うと、院内で持っておかねばならない品目が増える、っていうところにコストがかかってきたりする。やっぱりどこも世知辛い。

お金の話だけじゃなくて、人が複数人、一定の時間拘束される、というのも、やっぱり「コスト」だったりするから、まあコストを考える、っていうことになってくる。「人の命とコストを天秤にかけるのか!」っておっしゃる向きもあるのかもしれないけれど、かといって、じゃあ、一人の人に無限にお金も時間も、あるいは医療資源としての物資もつぎ込む、っていうのは、なかなか現実的じゃない。

なので、どうしても「現場が無理なく続けられる水準で」というのが前提になるのは、まあ仕方ないのかもしれない。

こういうところにも「医療の不確実性」っていうものは、あらわれていたり、する。