#31 検査では異常はありませんでした

nishi01

「検査では異常はありませんでした。」って、そういう言い方、あるよねえ。

未病学会は、そういうのを「未病」の一つだ、ってことにしているらしいし、自覚症状があるのに、客観的にそれを肯定するような検査結果が得られない訴えのことを「不定愁訴」って呼ぶわけですよ。

Unidentified Complaint ってのが英語らしい。英語を出されてもわからんよねえ。ええと、UFOって知ってる?最近はUFOって呼ばなくなったらしいけれど、あれがUnidentified Flying Object ってことで、「正体不明の飛行物体」って意味。未確認飛行物体、ってのが一般的な訳語になってたかな。つまり、不定愁訴ってのは、UFOみたいなものなわけ…なんつうか。ねえ。それで良いのかUFO。

そういえば、UMAってのもあったな。Unidentified Mysterious Animal。ツチノコとかネッシーとか、雪男とかがやっぱり、このUで始まる単語で表現されている。おおおお。それはなんつうか、すげえ。いやさ。すげえけれど、ちょっと意味が違うよねえ。

UFOとかUMAはさ。「見たこともないもの」である人たちの方が多いわけでしょ。だいたいは。でこの「不定愁訴=Unidentified Complaint」ってさ。目の前の人が症状を言ってるわけじゃん。ほら。目の前にあるのよ。なんなら、そういう訴えが目の前にあるのを、山盛り実感しつつ、そこから「目を逸らしている」ような話じゃねえの?ってことになったりする。

なんかねえ。

昔、わたしがどこかの先生に教えてもらったのはさ。「今までやってきた検査では、異常を指摘することができませんでした」っていうそういう表現。つまり、これから何らかの別の方法があれば、その方法では異常がでる可能性があるよね、っていう。

一方で、こういうときの検査、ってのをどこまでやるか、って話にはなるんだけれど、なるべく、生命に関わる異常がないかどうか、ってのは、調べることになっている。だから、懸念されるような大きな病気はなさそう、ってことは、まあ、おおよそ言えることが多い。

なので、「検査をしたけれど、そこには異常がなかった」っていうのは、まあ、それはそれで大事な情報が入っているわけなのよ。その上で、じゃあそういう器質的だったり、心配になるような大きな病気が無い、っていう前提で、次にどうしようか?って話につながっていくわけでさ。って、つながっていきたいところなのだけれど、意外と、最近のお医者さんは、そこを真面目に次の話につなげていかない、らしい。

実は、診察室って、医者と患者と、それから看護師か医療クラーク、くらいのメンバーしか入っていない、なかば個室みたいなところなので、わたしの診療でどんなことをやっているのか、って、そこに居合わせた看護師やクラークが発言しなかったら、伝わらないし、他の先生がどんな診療で、どんなことを喋っているのか、ってのを見る機会って(初心者のころは陪席していろいろ見せていただいて勉強するのだけれど、それ以降は)無いのが普通、になっている。だから、他の先生が具体的になにをおっしゃっているのか、どんなことを考えておられるのか、ってのは、わからない。

わからないけれど、なんとなく、患者さんからは「検査の結果は異常なしって言われた」の先が、どうにも尻すぼみになっている印象が多い。これもまた選択バイアスがかかっていて、きっちりその先を診てくださる先生のところにいらっしゃったら、わたしと出会うこともないから、ねえ。

原因はわからんけれど、とか、検査では異常はないのだけれど、っていう中で、それでも症状だけはある、みたいな事って、時々あって。婦人科では不正出血って呼ぶけれども、月経じゃない、性器出血がある、みたいなことがずーっと続いていた方もあった。どれだけ検査しても、癌の結果も出てこないし、かといって、見ているとたしかに出血があるし…うーん…って一緒に悩んでいたこと覚えている。あれはUMAだったのか…。(だから違うってば!)

健診でお話を聞いていると、時々、胸痛をおっしゃる方がある。もちろん、胸が締め付けられるように痛くなる、っていうのは、狭心症とか、心筋梗塞を疑う主要な症状なわけで、これが起こっていないかどうか、っていうのをきっちり調べて、否定するっていうのは大事なことだから、そこをきっちり抑えるのは間違いないことなのだけれど、じゃあ、狭心症や心筋梗塞が起こっていたわけじゃなさそう、ってなったときに、その後にも同じ症状が続くんだったら、どうしたら良い?って話になる。(実際にどのくらいの検査を受けたか、ってのも、医療記録があるわけじゃないから、ご本人のおっしゃることをそのまま鵜呑みにすると、っていう前提もあったり、する)

そういう胸の痛みをおっしゃる方の中に、わりとよくあるパターンとして「大胸筋の筋肉痛」ってのが、ある。重たいものを持ったりすることが仕事や生活の中にあると、この部分の負担が増えていて、で、時間差で痛みが出てきたりする。

「重たいものを持ったりしていませんか?」って尋ねるのだけれど、ご本人は重量物の持ち上げと、胸痛との関係性がピンとこないことも多いのか、「いや?ありませんけれど?」っておっしゃる方も多い。

とはいえ、じゃあ、痛いのは具体的にどこですか?って触診すると、結構大胸筋そのものだったりして「あー。この筋肉の痛みじゃないでしょうかねえ?」なんて話をしていると、思い当たることがあるのか、「そういえば、結構重たいバケツを持ったりしています」とか、先日は「そういえばこっちの腕で、赤ちゃん抱っこしています」って返事を頂いたこともあった。うん。赤ちゃんだもんねえ。「重たい「もの」」ではないなあ。

まあ、そうやって、説明がつくことがあれば、一安心できる。もちろん、それで説明がついたからといって、すべてじゃないし、次の胸痛は狭心症だったり、心筋梗塞だったりすることもあるかもしれない。とはいえ、原因不明の胸痛で、ひょっとしたら心臓がどこか、悪いんじゃないだろうか、みたいな不安は、ひとまず払拭できたりする。

自覚症状は、体表面に近いところの骨格筋で出てくることがやっぱり多いから、こういう話をするときに、触診して、筋肉の緊張を指摘できると、やっぱり断然説明の信頼度が違ってくる。のはまあ、よいのだけれど、一般的には筋肉の緊張って、検査では出てきにくいので、「検査では異常ありませんでした」って話になってしまう、ってことだし、なかなかそこから先に進みにくいよねえ、ってことになる。

それで良いのか?って話としては、うーん。今の日本における保険医療で、どこまでの「サービス」を提供するか?っていう大きな話になってくるような気がする。で、ざっくり言うと、たぶん、そういう「よくわからん心配事」っていうのに対して、保険診療の立て付けは「死なないんだから放っておけ」くらいになっている、のかもしれない。財務省は医療費が年々拡大していることに懸念を表明し続けているから。

わたしは極力、日常と、症状を繋げるような形にしてゆきたい、と思っているのだけれど、西洋医学っていうのは、日常から切り離したところに検査だとか、治療を持って行きたい、という願望があるのかもしれない。

そういえば「西洋医学の最大の功績は」って、昔、三砂ちづる氏が語っておられた。「抗菌薬を見いだして、感染の治療ができるようになったことでも、麻酔を見いだして手術を痛みなしに受けることができるようになったことでもなくて」って。もちろんその両方がとっても大きな成果であることは間違いない(後者はひょっとすると華岡青洲の麻沸散の方が先だったので、西洋医学の、ってばかりも言わなくてもいいのかもしれないけれど)けれど、そうじゃない、って。「病気の責任を自分で背負わなくて良くなったことだ」って。

かつての医学は、病気の原因の一端は個人そのひとにある、っていう発想が強くあって、それは「無理をしたから」とか「養生を怠ったから」とか、あるいは「悪いものを食べたから」みたいな、本人にも病気になるに至った責められるべきなにかがある、っていう考え方をしていたんだと思う。

ヨブ記に出てくるヨブも、だから、「悔い改めるべきだ」って友人から責められて、でも彼は「まったく、ただしいひと」だったから、「わたしはひとつも悪くない」って反論していたし、それで、友人は皆、敬遠するようになったんだと思う。そのまま神に文句を言うところで、神が顕現するのだけれど。

なので、西洋でも、病の原因が患者自身にある、っていうのは、かつての思想としては、そういうものがあったんだろうと思う。

で、最近は、「そうじゃないんだ。悪いのは感染を引き起こす病原体だ!」みたいな話になっていたり、あるいは「遺伝子の異常が悪いんだ(癌遺伝子とか癌抑制遺伝子の異常があると癌が発生しやすい)」みたいな話になっていたりする。

一方で、そうしたマインドセットだけではどうにもならないところを、「生活習慣病」みたいな表現に患者さん自身もなんとか気をつけて欲しい、って意味合いを込めたメッセージにしている部分もあるし、それに対しても「急に発症した1型の糖尿病なんて、生活習慣とは関係ない形で出てくるのに、それを私の生活が悪かったからじゃないか、なんて思わせるような表現としての「生活習慣病」ってのは許せん」みたいな主張をする人もでてきたりしている。

だんだん揺り戻しの揺り戻し、くらいになってきていて、よくわからなくなってきそうだけれど。

ええと、なんだか脱線して戻ってこなくなってしまった。

西洋医学っていうのが、だから、そうやって、病気を抱えるにいたった患者は、別に悪くないんだ、っていう話をしているのが最近のトレンドってこと。なんだけれど、こういう形で、患者自身があるいみ「疎外」されるようになってしまった。

あなたは悪くないのよ、っていう言い方の中には、「あなたの生活がどうであったとしても、病気を発症した」っていう意味が含まれるのだろうけれど、それは、裏返した解釈をすると、あなた自身の生活にどれだけの努力をしても、病気の発症とは関係ない、あなた自身は病気に対して無力である、っていう意味を含みかねない。

西洋医学の、欧米からの流れは、患者自身の意向を汲んだ「インフォームドコンセント」っていうのが最先端になっているのだけれど、患者自身が、自分自身の治療に参画する、っていう部分が無いと、無力感にさいなまれるようになってしまうのかもしれない。

検査が高度化して、本人の身体から、情報を得ることが簡単?になってしまったことから、患った人、っていうのは、客観的な科学の対象になってしまう。そうすると、本人の気持ちとか、生活っていうのは、どこかでなおざりになってしまいかねない。どこかで、そういう危機感を覚えた人たちが頑張った結果が、「患者の自己決定権」って話になってくるんだろうと思うのだけれど、そもそも専門家とは情報量の差があるわけでさ。

だから最近はインフォームドコンセント、っていう言葉だけじゃなくて、インフォームドチョイス、って言い方もある。「お膳立てしたメニューのうち、どちらを選びますか?」くらいにしないと、患者さんが抱えきれないとか判断できない、とかっていうことなんだろうと思う。

日本の臨床における入院加療は、自立した患者像よりは、やや退行し、依存した患者像の方が多いのかもしれなくて、そういう部分では、患者さんに「どうしますか?」って聞くよりは、「あなたにはこれが良いと思います。いいですね?」くらいの方が話が早かったりする。これをパターナリズムだ、って批判するひとたちもいるのだけれど、この辺は本当に、時と場合によるのだろうなあ、って思う。

ある意味で「専門家として、今、緊急の対応をすることを強く推奨します。詳細はあなたに理解してもらうには時間が足りないので、あしからずご理解ください」的な話だって、どこかであるだろうから。(仏教のたとえ話で、「この矢を撃った人がどんな人だかわかるまで抜きたくない」って文句垂れる人の話があった。四の五の言わずにさっさと抜け!抜いてからまた考えろ!みたいな教訓だったはず)

そういう「おまかせあれ」がすごく進んだっていう現状で、ってところに戻ってくるんだけれど。

私たちは専門家です。何でもあなたよりよく知っています。あなたよりも上手に判断できます。っていう。そういう形で「患者であるあなた」をどこかないがしろにしてきた人たちが、じゃあ、「あなた」が言う症状から、いろいろ調べてみたら「いや検査には異常なかったですぜ」って話をしはじめた、ってところになったら。やっぱりちょっと途方に暮れるよねえ。

そのくらい、今の医療は、日常から離れてしまったのよ。きっと。理屈も、検査も、治療も。

それは、ある意味、専門家のあり方としては、間違いじゃないんだろう、って思うのだけれど、一方で、やっぱり、患者さんって、病気を持っているよりも前に、ひとりのひと、じゃないですか。で、ひとりのひととして、生活があるわけで。

そういう生活との関わりをなしに、症状だけがあるとか、異常だけがある、って、きっと、そんな話はないんだろうと思うわけですよ。っていうあたりを、じゃあ、症状や病状と生活をどこかで繋げられるような理論が必要だよねえ、とか、そういうことを一緒に考える立て付けが必要だよねえ、って話になってくるのだけれど。

それをお医者さんがやろうと思うと、とっても時間が足りないよねえ…ってことになりかねない。(わたしはわたしのクリニックでそれを頑張ってやってみようとおもっているのだけれど…保険診療の報酬だけではそれは経済的に成立しないので、患者さんの自己負担を大きくする必要がある)

で。どこかに、そういう話を相談できる先って…?ってみなさん、思うでしょ?なので、ぜひ。鍼灸師さんに相談してみてくださいよ!って話になるのですよ。もちろん、鍼灸師さんもいろいろいらっしゃるから、そういうことをちゃんと考えて、語ってくださる人を見つけてくださいね、ってことにはなるんだけれど。

で。冒頭の「検査結果に異常はなかった」って話にもどるのだけれど。中医学とか、漢方とかあるいは鍼灸とか、そういう道具立ては、西洋医学の道具立てとは違うんです。

強力な道具立て、とは言わないけれど、でも、西洋医学的な「強い光」じゃなくても、光を当てる角度が違えば、見えてくるものが違ってきたりする。そういう光の当たり方と、ちょっと違った角度からの視野があれば、そこには「あなたの症状」を説明できる、なんらかの異常ってのが見つけられるかもしれないし、そうした異常や症状に対処する方法が、当たり前のように、準備されているかもしれない、ってことだから。