肩書きで行う治療について

nishi01-01

「先生の治療のうち、「お医者さんである」ことが寄与しているのは何割くらいだと思いますか?」って質問を頂戴した。

えー?って思ったけれど、たしかに、同じことを、「お医者さん」っていう肩書きとともに紹介されないままでやったとして、それを理解してくださる方って、少ないかもしれない。っていうより、きっと、少ないよねえ、って思う。

ちょっと前のころは、背中を平手で叩いてたのよ。大きな音たてて。それで元気になる方があったのだけれど、今は、もっと「地味」になってきてしまった。ちょっと手でふれながら、その手が少し動く、くらい。

じゃあ、その施術が正味100%、施術のやり方が効いているから、なのか、それとも、5%くらいは、その施術のやり方が効いているけれど、雰囲気とか、肩書きが残りの95%くらいを占めているのか?ってのが、問題になる。いや問題になるわけじゃないけれどさ。技術そのものの有効性がどのくらいか、っていう正味の話ってちょっと知っておきたいよねえ、って。

って訊かれて、ちょっと呆然としてしまった。今まで、「治療に使えるなら、なんでも使う」ってスタンスだったけど、それぞれの「効果をあげるための小細工」みたいなものが、どのくらい寄与しているか、って、考えたこと無かったから。

でもさ。

ホメオパシーの治療って、レメディっていう、主要な成分をものすごく薄めたあとで、砂糖玉に振りかけたり、水にそのまま溶かしたり、っていうものを「治療のツール」として使うのよね。で、あなたのその症状にあうのは、どのレメディですか?っていうのを一生懸命さがす。なるべく他の似たようなもの、から、あなた一人の特有の症状、っていうものに特異的に有効なレメディをさがす。これには「マテリアメディカ」だったと思うのだけれど、そのレメディを飲んでみて、起こった症状が列記してあるのよ。で、その中から、いまのあなた、のあり方にぴったりあうものを、一緒になって探す。

私は、この探す行為こそが、きっと、かなり治療的な関わりなんだろう、って思っている。

つまり、「ほかでもない、あなたにしか訪れなかった症状」っていうのを、あなた一人のために、あなたの言葉に耳を傾けつつ探す、っていう。極めて個別的な行為がここにはある。

そして、同時に、そうやって見つけ出した症状が、「マテリアメディカ」の中にはある、あなた一人だけがその症状に悩んだのではなくて、あなたよりも前にそれを経験したひとが、たしかに居る、っていう形で「あなたの症状は、たしかに、他の人もその症状を持った人が居ます」っていうことで、孤独じゃないことを強調できる。個別化への物語が開かれていると同時に、一般化されるっていう、この枠組みに、本人が委ねられている、っていう形が、とっても治療的なんだよなあ、って思う。

個別の物語を、かけがえのないものとしつつ、かつ、その中にある一般性を見いだすこと。

個別の物語に熱心に耳を傾けて、その個別性を強調しながら、その個別性がたどり着く先の一般性を持っていること。そんなことが、治療には、大事なんだろうなあ、って。

で。だ。

冒頭の質問に戻るけれど。

私が「医者である」って名乗ることで、半分以上、治療的な関わりになってる、ん、だろうなあ。

少なくとも、肩書きを手に入れる前よりも、治療の前置きが短くて済むようになっている。人にふれる、っていうことへの了解が得られやすい、ってのも、ある。もちろん、これは、今までの先輩たちが築き上げてくださった「信頼感」の上に乗っかっているわけで、うっかり自分の力だ、なんて勘違いすることはやったら駄目だし、なんなら、自分も後輩たちのために、その信頼感を積み増しする方向に結果を出していく必要がある。

名医扁鵲は、一人じゃなくて、当時の医術を専門とする一族の襲名された名前だったかもしれない、って話があるんだっけ?「今代の扁鵲は下手くそだなあ」ってなったら駄目なのよ。で、そういう意味では、きっちり治せるように、技を磨くってことが大事なんだよねえ。

そして、背負っている看板が、わりと有効だったりする。大学病院とか、赤十字病院、みたいな大看板を背負っていると、患者さんが話を聞いてくれやすい。それにあぐらをかいていてはいけないけれど。

なので、私の治療の半分は「肩書き」が効いているだろうし、その上で、他に有効な肩書きがあるのかもしれない。たぶん、施術する場所の内装とか雰囲気っていうのも、それに関与しているんだろうな、って思う。そういう「舞台装置」に負けないように、私も腕を磨いていくつもりだけれど。