概念に納得がいかないと、結果が失敗してしまう

エッセー

今日患者さんと「最近では、数学ができないことを『数学学習障害』というんだそうです」「病気、なんですね。あと何年かしたら、薬が開発されて、それを飲むだけで数学ができるようになるのでしょうか」というような話をした。

なんで『数学学習障害』になったのか?

「中学で三角関数が出てきたとき、なぜこれを学ばなければならないのか」「結局のところ三角関数って何だろって疑問に思った」。
でも授業は「公式を覚えなさい」「覚えた公式を使って問題を解きなさい」と進み、最初の疑問の「三角関数って何?」という問いには誰も答えてくれなかった。
いまから思えば、最初に建築関係の仕事を経験していれば、その仕事の中で三角関数の必要性が肉感的に理解できたのに…。

そう、疑念とともにある概念を使って、問題など解けやしないのだ。

残念ながら、ほとんどの教育者は、こんな疑問がわくことも理解してもらえない。

辻本なんか、もっとはじめのころ、「直線ってなに?」って疑問を持ってしまい、それで『算数学習障害』になってしまった。
「2点間を最短で結ぶ線分を直線という」ではなくて、「2点間を最短で結ぶ線分を直線と『定義する』」と言ってくれればわかったのに、こんなささやかなことに気づくまでん10年かかってしまった。難儀なことである。

今は学生ではないので『数学学習障害』は問題にならないけれど、『鍼灸学習障害』になりつつあって困っている。多発性である。難治性である。

ところでこういう「障害」ってけっこう難しくて、例えば、「この色を『白(しろ)』といいます」ということについて、疑義をいだく人は多くないと思うけど、「私の白は、彼の白と同じなのか (色は、すべての人が同等に同じ色として認識しているのだろうか)」と考えだすと、「障害」の度数が深まってしまう。

それも大学の『色彩学』などではなく、高校の『生物』などでこの深みに落ちてしまうと、脱出困難である。

受験が苦手な人の中には、ここらあたりの「余分な疑問」の罠に落ちている人も多いのではないだろうか。ここから引き上げてくれる教師は、残念ながら(日本には?)多くはないように思える。

これは医療の世界も同じで、往々「医師と患者の関係」「最悪の手段の選択を繰り返す患者」もこのジレンマの中に苦しんでいるもののようにみえる。